にいやな予感を与えたのは、清川の年上の愛人|雪枝《ゆきえ》の家《うち》で催された、年暮のお浚《さら》いの納会の時であった。庸三は葉子の身のうえに今にも何か新しい事件が起こりそうな感じで、下宿の閾《しきい》を跨《また》ぐのも何か億劫《おっくう》になっていたが、納会に誘われた時も弾《はず》まなかった。それもその前に、丸の内のあるビルディングの講堂で、高田夫妻の舞踊の公演のあった時も、帰る時にはぐらか[#「はぐらか」に傍点]されてしまって、気持を悪くしていたからで、せっかく熱心に誘われても、狐《きつね》につままれたようで、感じがよくなかった。しかし葉子の愛情に信用の置けようもないので、怒る張合いもなかった。
「そうね。僕が一々顔出すのもどうかね。」
「でも先生が行ってくれないと可笑《おか》しいわよ。お師匠さんも先生に見てもらいたがっているのよ。」
庸三もこの人の踊りをずっと前から見ていた。十二三年も前に、日本橋|倶楽部《クラブ》で初めてその人を見た時は、彼女も若かったが、踊りも瑞々《みずみず》していた。次第に彼女は新しい主題を取り扱い、自身の境地を拓《ひら》いて行った。庸三も踊りはわかるようで解《わか》らないのだったが、見るのは好きであったので、舞踊にも造詣《ぞうけい》のふかい若い愛人清川を得てからの新作発表の公演も見逃《みのが》さなかった。
しかし今夜のはプライヴェトな催しであるだけに、踊りよりも集まる人たちの社交の雰囲気《ふんいき》に、巧く入って行けないような気もしたし、葉子と清川とのあれからの接近の度合いも何とはなし解るようにも思えたので、とかく気が進まないのであった。このごろの葉子の口吻《くちぶり》でも、瑠美子を間に挟《はさ》んでの二人の親愛が卜《ぼく》されるので、今夜あたりどんな場面を見せつけられるかも知れないし、またそれが彼ら二人の準備行動なのかも知れないのであった。感の鈍い庸三はそれを分明に考えたわけではなかったけれど、敷衍《ふえん》すればそうも言えるのであった。
最近移ったばかりの信濃町《しなのまち》の雪枝の家《うち》の少し手前で、タキシイを乗り棄《す》て、白いレイスの衿飾《えりかざ》りのある黒いサテンの洋服を着た葉子は、和装の時ほど顔も姿も栄《は》えないので、何か寒々した感じだったが、気分も沈みがちであった。さほど広くもない部屋にざっと一杯の人で、やや入口に近い右側の壁を背にして、清川と見知りの若い人の顔が見えたが、舞台では子供の踊りも、大分番数が進んだところであった。やがて瑠美子たちの愛らしい一組の新舞踊も済み、親たちが自慢の衣裳《いしょう》をつけて、年の割りにひどく熟《ま》せた子も引っ込んで、見応《みごた》えのある粒の大きいのも、数番つづいた。葉子は後ろの方にいたので、動静はわからなかったが、今夜の彼女はさながら凋《しぼ》みきった花のように、ぐったりしていた。瑠美子を預かってくれている師匠の晴々した目と、すでに幾度も苦い汁《しる》を呑《の》ませられた庸三の警戒の目の下に、やり場のない魂の疼《うず》きを忍ばせている彼女は、すでにこの恋愛の前にすっかり打ち※[#「※」は「足へん」+「倍」のつくり、第3水準1−92−37、301−下−16]《のめ》されていた。
やがて庸三は師匠にいわれて二階へ上がってみた。そこにはお茶の支度《したく》も出来ていて、サンドウィッチや鮓《すし》や菓子が饗応《ふるま》われた。
「あの人たち、先生のお国の西新地の芸者衆ですよ。」
師匠が言うのでそっちを見ると仕切りを外《はず》した次の部屋に、呆《ほう》けた面相の年増が二人いた。
「あれでなかなか芸人ですのよ。お座敷がとても面白いんですの。」
師匠がおりて行ってからサンドウィッチを撮《つま》みながら、庸三はしばらく清川たちと話していたが、葉子が呼びに来たので降りて行くと、師匠の素踊りがもう進行していた。そしてそれがすむと、食卓を連ねてひそやかな祝宴が催された。震災の時|由井ケ浜《ゆいがはま》で海嘯《つなみ》にさらわれたという恋愛至上主義者の未亡人、その姉だというある劇場の夫人、それに雪枝と名取りの弟子たちとが、鍵なりに座を取ると、反対側に庸三と葉子と清川とが、これも鍵なりに坐っていたが、晴れやかな話し手はいつも雪枝の組で、そらすまいとは力《つと》めていたが、こっちの組はさながら痺《しび》れた半身のように白けていた。
庸三は息詰りを感じて、やがて匆々《そうそう》に外へ出た。葉子も清川とふざけている瑠美子を促して、続いたが、星の煌々《きらきら》する夜空の下へ出ると、やっと彼女もほっとした。
それが大晦日《おおみそか》の晩であった。庸三はある時は葉子と清川とのあの晩の態度に絡《まつ》わる疑問に悩みある時はそれを打ち消した。年は取って
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