っぱり気にかかった。狭い下宿の部屋で、瑠美子も加えて三人|枕《まくら》を並べるのは、何と言っても憂鬱《ゆううつ》だったし、昼間下宿の飯を食いながら、そこにぼんやりしているのも苛立《いらだ》たしかったが、何かというとやはり足がそっちへ向いた。一緒に外へ出て支那料理を食べたり、昔し錦町《にしきちょう》に下宿していた時分、神保町《じんぼうちょう》にいた画家で俳人である峰岸と一緒に、よく行ったことのある色物の寄席《よせ》へ入ってみたりした。昔しは油紙に火のついたように、べらべら喋《しゃべ》る円蔵がかかっていて「八笑人」や「花見の仇討《あだうち》や、三馬の「浮世床」などを聴《き》いたものだったが、今来てみると、それほどの噺家《はなしか》もいなかったし、雰囲気《ふんいき》もがらりと変わっていた。あれからどのくらいの年月がたったか。日本にも大きな戦争があり、世の中のすべてがあわただしく変化したが、世界にも未曾有《みぞう》の惨劇があり、欧洲《おうしゅう》文化に大混乱を来たした。思想界にも文学界にもいろいろのイデオロギイやイズムの目覚《めざ》ましい興隆と絶えざる変遷があったが、その波に漾《ただよ》いながら独身時代の庸三の青壮年期も、別にぱっとしたこともなくて終りを告げ、二十五年の結婚生活にも大詰が来て、黄昏《たそがれ》の色が早くも身辺に迫って来た。彼は何か踊りたいような気持に駆られ、隅《すみ》の方で拙《まず》い踊りを踊りはじめたのだったが、もとより足取りは狂いがちであった。独りで踊りを持て扱い引込みもつかなくて、さんざんに痴態を演じているうちにも、心は次第に白けて来たが、転身の契機もそうやすやすとは来ないのであった。
 ある時も、彼は小肥《こぶと》りに肥った下宿の主婦に、部屋に葉子がいないと言われて、入口の石段を降りて来たが、何か人の気勢《けはい》がしたようにも思われるし、お茶でも呑《の》みに行ったか、行きつけの南明座《なんめいざ》かシネマ・パレスヘでも行ったのなら、帰るのを待つのもいいような気もしたが、いつもの「上がってお待ちになっては……」とも言わないので、それも気になった。
 ちょうど政友会の放漫政策の後を享《う》けて、緊縮政策の浜口内閣の出現した時であった。ふと庸三の耳に総理大臣の放送が入って来た。ラジオは下宿から少し奥へ入ったところの、十字路の角の電気器具商店からだったが、聞きたいと思っていたところなので、彼はステッキに半身を支えてしばらく耳を傾けながら、葉子の姿がもしも見えはしないかと、下宿の方に目を配っていた。先きの目当てのつかない彼女の下宿生活が、彼からの少しばかりの補助でいつまで持ちつづけられるはずのものでもなかったし、ジャアナリストに見放された葉子の立場を持ち直すこれという方法もなかったので、打開の道を講ずるために、何らか行動を執っているであろうことも考えられないことではなかった。それはそうなるべきだと思いながら、庸三の心には今なお割り切れないものがあった。しかしまた、なまじいに正体を突き止めたり何かするよりかも、今度はぼやかしておいた方がいいとも思って、なるだけ足を運ばないようにして来たのだったが、来てみるとやはり気になるのであった。と言っても彼も妄動《もうどう》のいけないことに、だんだん気がついていた。一度心が揺れはじめると、容易には揺れ止《や》まないので、そういう時は、部屋にじっとしているに限るのだった。そして光線を厭《いと》うように二人で下宿の部屋に閉じ籠《こ》もっている時の憂鬱さを考え、それがあたかも人生の究極絶対の法悦ででもあるかのように遊戯に耽《ふ》ける時の、不健康さの無駄な繰り返しを思ってみるに限るのであった。
 首相の放送を終りまで聞かずに、庸三はやがて明るい表通りへ出て来た。そしてそういう時には、独りで歩くのもまた楽しかった。

 葉子の身のうえに、今までにもかつてなかった、おそらく今後にもあるまいと思われる恋愛事件の発生したのは、翌年の春のことだったが、それは環境と年齢と柄合いから見て、二人にとってきわめて自然の成行きであり、魔の翅《はね》のような予感は前から薄々影を落としていた。庸三はそれを希《ねが》わないだけに、わざとしばしば擬装的な示唆《しさ》を与えてみたのだった。
「あの男ならうまく行くに決まっている。」
 しかし彼もまるきり否定しているわけでもなかった。どうせ離れて行くなら、つまらないものの掌《て》に落ちるよりも、行きばえのする相手に落ち着いた方がいいという考え方もないわけではなかった。利己的である一方、自分の息のかかったものを泥《どろ》に塗《まみ》れさせたくないという気持もあった。それは鬩《せめ》ぎ合うほど極端なものでもなかった。いずれも人間にありがちな感情だと言うよりほかなかった。
 庸三
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