歌など見てもらっていた葉子が、秋本に逢《あ》うのもその家であった。それに、秋本には最近また小説的な一つの事件があった。彼はずっと前から夫人と別居して、夫人の姉が第二夫人のような形で同棲《どうせい》し、彼の家政を見かたがた子供の世話をしていたが、それが最近少なからぬ金を拐帯《かいたい》して、元救世軍の士官だったという年輩の男のもとへ走っていたという事件は、その士官が左翼一方の頭領として、有名だっただけに、この夏ごろの新聞の社会面記事として、世間を賑《にぎ》わしていた。
「秋本さんはとても異《かわ》った人でして、どうも頭脳《あたま》が変でしたよ。」
下宿の主人は言うのであった。秋本はその事件の勃発《ぼっぱつ》とともに女を捜しに上京して来た。そしてここで幾度か女にも男にも逢ったが、女の決心は動かなかった。
葉子にいわせると、彼には郷里に遊びつけの芸者もあり、酒も強い方だったが、あれほどの物持でありながら、どの夫人にも逃げられるには、何か異ったところがあるらしかった。
「そう言えば私も思い当たることがある。」
しかし庸三はまた異った意味で、下宿の主人を知っていた。四五年前に死んだ越後小千谷《えちごおじや》産まれの彼の父は、庸三の下宿時代から家庭生活時代へかけての幾年かに亙《わた》って、越後の織物を売りに来たものだった。そのころまだ顔の生白い若者が、今子供二人の父親であるこの家の主人であった。
「先生と奥さんのことよく話しているわ。」
葉子は言うのだったが、初めて庸三の家を飛び出して、行方《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまった彼女を、偶然にも捜し当てたのも、またこの家であった。
新宿の旅館から荷物を持ちこんで来た葉子は、その当時壁紙など自分で張りかえた下の部屋に落ちついて、窓に子供っぽいカアテンを張り、二つの電球をもった、北海道時代から持ち越しの、例の仏蘭西製のスタンドも、こてこて刺繍《ししゅう》のある絹張りのシェイドに、異国の売淫窟《ばいいんくつ》を思わせる雰囲気《ふんいき》を浮かび出させるのであった。
庸三は時々瑠美子と並んで、陰鬱《いんうつ》なその部屋に寝るのだったが、葉子も彼の書斎で夜を明かすこともあった。
するとある朝|夙《はや》く――あいにくにもちょうど葉子が下宿の部屋を一晩明けた朝方に、電話がかかって来た。葉子はあわてて羽織を引っかけたまま、飛び出して行ったが、やがて帰って来ると、困惑した顔て支度《したく》をしはじめた。
「秋本さんの番頭さんが来たのよ。」
このごろになって、葉子がいろいろに手を廻して、彼を引き戻そうとしていることは、庸三にも解っていた。そうなることをも希望していた。しかしまた葉子はどうかすると、庸三の唆《そその》かしに乗ったふうにして、小河内の自宅へ電話をかけ、夫人と辞礼を取り交すこともあった。
「何だい、旦《だん》つくはお留守だ。」
葉子は悪戯《いたずら》そうに首を悚《すく》めながら、電話口を離れて来るのだった。
しかし何といっても秋本の方にまだしも脈がありそうに思えた。今秋本が彼女の動静を探らせに、わざわざ番頭を寄越《よこ》したとなると、場合は葉子に不運であった。
やがて下宿の別室で、葉子は番頭に逢ったが、昨夜の彼女の居所を、すでに感づかれているようにも思えた。
「仕方ないからよそへ原稿書きに行っていたと言って胡麻化《ごまか》して、御馳走《ごちそう》して帰したわ。」
忘れものの手提《てさげ》もあって、番頭を送り出すと、じきに舞い戻って来て庸三に報告するのだった。
「悪いところへやって来たもんだな。」
葉子は今起きたばかりの庸三の傍へ来て、空洞《うつろ》な笑い声を立てたが、悄然《しょんぼり》卓子《テイブル》に頬肱《ほおひじ》をついている姿も哀れにみえた。
やがて多事だったその年も、クリスマスが近づいて来た。庸三は時に葉子の下宿の方へ足の向くこともあったが、そのころになると、彼女の窓の赭《あか》いカアテンに、例のスタンドの明りが必ず映っているとも決まらなかった。
「また何か初まる。」
庸三は六感を働かせながら、賑《にぎ》やかな通りの方へ引き返すのだった。
二十三
表通りも賑やかだったが、少し入り込んだところにある下宿へ行くまでの横町は、別の意味で賑やかであった。表通りは名高い大きな書店や、文房具屋や、支那《シナ》料理などの目貫《めぬき》の商店街であったが、一歩横町へ入ると、モダアニズムの安価な一般化の現われとして、こちゃこちゃした安普請のカフエやサロンがぎっちり軒を並ベ、あっちからもこっちからも騒々しいジャズの旋律が流れて来るのだった。庸三はせっかく行ってみても、葉子がいなかったりすると、張り合いがないので、なるべくなら行かないことにしていたが、彼女の動静はや
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