どうかすると、愛人がこの旅館のどの部屋かに来ているような感じを抱《いだ》かせる挙動を見せたり、後の思い出に、最期《さいご》の時をとにかくしばし楽しく過ごそうとしているような口吻《くちぶり》を洩《も》らしたりした。しょぼ降る雨のなかを一本の傘《かさ》で、石のごろごろしている強羅《ごうら》公園を歩いている時も、ここで一夏一緒に暮らしてみたいように囁《ささや》くかと思うと、次ぎの相手がもう側ちかく来てでもいるような気振りを見せるのだった。さながら彼女は自然に浮かれた夢遊病者であった。
「ああ、そう夢が多くちゃ。」
「私夢がなくちゃとても寂しい。」
 葉子はもう涙ぐんでいた。
 煖炉《だんろ》が懐かしくなる時分になった。
 その時分になると、葉子も神田《かんだ》の下宿へ荷物と子供を持ちこんでいた。毎朝毎夜、クリームを塗ったりルウジュをつけたりしていた鏡台と箪笥《たんす》は今なお庸三の部屋にあった。というのも北海道の結婚生活時代に、前夫の松川と連帯になっている債務が、ここまで追いかけて来て、庸三の不在中、彼の卓子《テイブル》などをも書き入れて差し押えられたからで、それを釈《と》くのに少し手間がかかったが、それも春日の事務所にいる若い弁護士に委《まか》せてあった。
 上海《シャンハイ》へ逃げて行った松川からは、あれ以来何の音沙汰《おとさた》もなかった。葉子より庸三の方が時々それを思い出し、元へかえるならいつでも還《かえ》れそうな松川に足場が出来たら、そこへ落ち着くのもよくはないかと思ったが、上海くんだりまで行くようなふてぶてしさも、葉子にはなかった。
 ある時東京会館の二階で、上方風のすき焼を食べたが、庸三の子供三人に瑠美子もいた。彼らは衝立《ついたて》の陰で鍋《なべ》の肉を小皿に取りわけ、子供に食べさせていたのだったが、ちょうどその時、田舎《いなか》の人らしい毛皮づきの二重廻しを着た五十年輩の人と少し若い男と四人づれで、ゴルフやけでもしたような、色の浅黒い三十五六のシイクな濃い茶の背広服の男と、その夫人らしい派手な服装の女が入って来るのが、葉子の目についた。
「ちょっと、あれが小河内さん夫婦よ。」
 葉子は庸三にささやいたが、ちょうど葉子の後ろにある衝立の斜向《はすむか》いの処《ところ》に、彼らは席を取った。別にそれほど目立つ男ではなかったが、鼻筋の通った痩せぎすな顔に品があり、均勢の取れた姿もスマートであった。
 葉子はちょっと衝立の端から半身を現わして、お辞儀したが、こっちはごたごた家庭的なので少し照れていた。
 するとそれから一週間もたったかと思うころに、帝劇の音楽会で、またしても葉子は小河内夫妻と出逢《であ》った。
 演奏は露西亜《ロシア》のピアニスト、ゴドウスキイであったが、いかにも露西亜人らしいがっちりした小肥《こぶと》りの紳士で、演奏技術の上手下手は、いくらか聞きなれたヴァイオリンほどにも解《わか》らないのだったが、好きな義太夫《ぎだゆう》の三味線《しゃみせん》などで、上手な弾《ひ》き手の軽々した撥《ばち》と糸とが縺《もつ》れ合って離れないように、長く喰《は》み出した白いカフスの手が、どこまで霊妙に鍵盤《けんばん》を馴《な》らしきっているかと思われた。
 葉子は最初から小河内夫婦の存在に気づいていた。それがちょうど二人の座席から二列前の椅子《いす》で、ちょうどこっちからその頸筋《くびすじ》と、耳と片頬《かたほお》と顎《あご》が斜《はす》かいに見えるような位置にあった。庸三は少し尖《とが》りのある後頭部から、強い意志の表象でもありそうな顎骨《がっこつ》のあたりを、辛うじて見ることができたが、時々そっちへ惹き着けられている葉子の目も何となく彼の感じに通った。やがて休憩時間がおわった時、二人の横を通って座席に帰って行く夫人と葉子と挨拶を交した。
 静粛な演奏会がやがて終りを告げたところで、庸三は聴衆の雪崩《なだ》れにつれて、ずんずん廊下へ出たが、振りかえってみると葉子の姿が見えなかった。多分オーケストラ・ボックスの脇《わき》を通って、南側の廊下へでも出たのだろうと思って、その方へも行ってみたが、そのころにはそこにもすでに人影もみえなかった。しかし葉子が角のところへ姿を現わし、彼を呼んでいたのもその瞬間であった。
「私さっきから先生を捜していたのよ。立ちがけにちょっとあの人たちに挨拶している間に、ぐんぐん行っちゃって……。」

 後に左翼代議士の暗殺された神田の下宿は、葉子にも庸三にも不思議な因縁があった。というのは、大新聞に小説でも書くようになった暁には、庸三の傍《そば》を離れて、結婚生活に入りどこか静かな郊外で農園をもち、そこに愛の巣を営む約束で一年間月々生活費を送っていた秋本の定宿も、今はバラック建のその下宿であったが、
前へ 次へ
全109ページ中94ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング