ていた。
新しいだけに旅館の感じは悪くはなかった。それに彼女はどこへ行っても、番頭や女中に好感をもたれるのだった。
「びっくりした?」
「いや大して。」
見るとスウトケイスや、唐草《からくさ》模様の風呂敷包《ふろしきづつみ》などが、大小幾つとなく隅《すみ》の方に積まれ、今着いたばかりだというふうだった。
「どうしたんだい。」
「ううん、着いて間もなくお母さんと喧嘩しちゃったのよ。手当り次第汚ない下駄《げた》を突っかけたまま、飛び出して来たものなのよ。」
「瑠美子は?」
「泣いて追い縋《すが》って来るから、瑠美子も一緒よ。下で北山さんとお風呂に入っているところよ。」
看《み》ると横に細長い見馴《みな》れぬ時計が彼女の腕に虫みたいに光っていた。
「そんなもの買ったのか。」
庸三は咎《とが》めるように言った。多分立ち際《ぎわ》の買いものだと思われた。
「御免なさい。お金いただいて。でも、そんなに手が着いていないわよ。一緒に旅行しましょう。」
葉子は尻《しり》あがりに言った。あれだけあってもどうせ何ができるものでもないから、一緒に綺麗《きれい》に使おうといったふうだった。
「それよりか面白いことがあったのよ。汽車の中で女学校時代のお友達に逢《あ》ったの。市の大きな呉服屋の娘さんですけど、銀行なんか持っている多額納税者の小河内《おごうち》さんとこへ片着いて、市でも評判なのよ。その小河内さんも一緒だったものだから紹介されたけれど、この人は三田の経済部出で麹町《こうじまち》辺に家をもっているらしいの。一度遊びに来いとか言っていたっけが、洋服でもネクタイでも靴でも、それこそ五分の隙《すき》もないシックな気取り方で、顔もきりっとした、あれが苦味走ったとでもいうんでしょうよ、ちょっと現代風のいい男なの。ああいう人はまたいい葉巻を吸ってるものなのね。ケイスを出して、私にも一本くれたけれど――。」
葉子の話のなかに、そこに通俗小説の主人公が一人浮かび出して来た。
「奥さんも、顔は少々二の町だけれど、派手な訪問着なんか着て、この人はただ人柄がいいというだけのものなの。小説や映画のことも私などと話のピントが合わないんだもの。あの旦《だん》つくにしては少し退屈な奥さんかも知れないけれど、感じは大変いいの。」
「そんなのいいね。何とかならないものかね。」
「だって奥さんがあるんですもの、今さらどうにもならないわ。でも交際してみてもいいとは思うの。」
そこへ北山も子供も風呂《ふろ》から上がって来た。葉子は紅茶に水菓子なぞ取り、懐《ふとこ》ろに金もあるので、がらりと世界が変わったように見えた。
人目もあるので、日が暮れても散歩に出られず、三人で雑談に夜を更《ふ》かしたが、どうした拍子か北山の好きな酒が出て、子供や庸三が寝床へ入ってからも、女同志の話がつづいた。
葉子が庸三の近くに家を構えていた時分、よく北山を訪ねて来て、清純な恋愛を葉子にも訴え訴えしていた若い塑像家《そぞうか》の噂《うわさ》も出た。北山さえ少し遠いのを我慢すれば、彼の父は神奈川《かながわ》にある店の近くにアトリエを建ててくれるはずだったが、彼女は物堅い旧家の雰囲気《ふんいき》のなかへ入って行くのを嫌《きら》って、しばらく江古田《えごた》の方に貧しい同棲《どうせい》生活をつづけていたこともあった。
「貴女《あなた》も一人目つけるのよ。」
葉子は少し酔っていた。
「ええ、でも目つからないのよ。」
「どうせ目つけるなら大物に限るのよ。」
「私じゃ駄目だわ。お姉さんの真似《まね》できないわ。」
彼女は煙草《たばこ》の煙を吐いていた。
「恐るべき女たち。」
庸三は思いながら蒲団《ふとん》をかぶった。
秋もようやくたけなわなころに、二人は紅葉《もみじ》を探りに二三日箱根へ旅してみたが、帰って来たころには、葉子の懐ろも大分寂しくなっていた。
二人は燃え立つ紅葉の錦《にしき》に埋《うず》まっている、小涌谷《こわくだに》の旅館に落ちついたが、どうせそのうちに低気圧は来るものとして、今日の日は今日の日だと肚《はら》をきめている庸三も、どうかすると薊《あざみ》の刺《とげ》のようなものの刺さって来るのを、いかんともすることができなかった。ある時は少年のように朗らかに挙動《ふるま》い、朝の森に小禽《ことり》が囁《さえず》るような楽しさで話すのだったが、一々|応《う》け答《こた》えもできないような多弁の噴霧を浴びせかけて、彼を辟易《へきえき》させることがあるかと思うと、北の国の憂鬱《ゆううつ》な潮の音や、時雨《しぐ》らんだ山の顰《ひそ》みにも似た暗さ嶮《けわ》しさで、彼を苛《いら》つかせることもあり、現実には疎《うと》い文学少女でありながら、商売女のように、機敏に人を見透かしもするのであった。
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