だったが、しかしちょうど家庭にはまるような、そんな女や結婚を考えるとやはり憂鬱であった。
ある時も、庸三はその友人につれられて、麻布《あざぶ》の方に住んでいる、庸三などとはまるで生活規模の桁《けた》の異う婦人をおとずれてみた。婦人を見るというのは、附けたりの興味で、真実《ほんとう》は売りたがっているその家を見るのが目的だったが、建築はなるほどすばらしいものだった。もちろんある大財閥の血統の一人のこれは隠宅なので、構えが宏壮《こうそう》という種類のものではなく、隅々《すみずみ》まで数寄《すき》を凝らしたお茶趣味のものだったが、でっぷり肥った婦人の三年にわたった建築の苦心談を聴《き》くだけでも、容易なものではなかった。奥にある洋館が坪三千円かかったというのも、嘘《うそ》ではないらしかったが、そこの壁にかかっている大礼服装の老人は、万事不自由のないように婦人の身のまわりを処理しておいて、今はまた新しい女に移って行ったのだった。下草に高山植物ばかり集めた庭も寂《さ》びたものだった。
「何ならここでお書きになったら。」
彼女はお愛相《あいそ》を言うのだったが、作家というもの、ことにこの資財家の友人である庸三なぞの生活が、どんなものだかという見当もつかぬものらしかった。
「あれ三十万円かかったというんだがね、株で損したりして、今となっては少し持て余しものだから、負けるにはぐっと負けるだろうが、僕らの住居《すまい》にはこてこて凝りすぎて、何だか可笑《おか》しいね。」
帰りの自動車のなかで、友人は話すのだった。
葉子の今度の電話では、彼女は都合によって田舎《いなか》へ帰ることになったから、立ちがけにちょっと話したいこともあるので、上野駅前の旅館|大和屋《やまとや》まできっと来てくれるようにというのだった。その時分になると、庸三の心持にも落着きが出来ていた。町はまだいくらか暑かった。庸三はいつもの塵除《ちりよ》けを着て、握り太の籐《とう》のステッキをもっていたが、二つ三つの荷物のごろごろしている狭い部屋に迎えられて、葉子と侍女の女美術生北山とのあいだにどっかと坐った。彼は今はすべてが夢だという気がしていた。田舎へ帰るというのも、さっぱりした感じだった。何かインチキがありそうに、今さら田舎へ引っ込むことになった心境と理由についての、涙まじりのくどくどしい説明も、取ってつけたような彼女の鼻元思案のように思えたが、彼はにやにやしながら、ただ頷《うなず》いていた。
「今日はどうしてそんなに笑ってばかりいるの?」
葉子は神経質に詰《なじ》った。
「何でもないよ。何となくせいせいした気持なんだ。」
葉子の言うのでは、母も取る年だから、この上の苦労はさせたくない。家《うち》の収入も減ったので、かつての庸三のぺンを執ったあの離房《はなれ》も、人に貸すことになったし、この際少しお金をあげたいと思う。瑠美子の健康にも田舎の暮しのいいことがつくづく思われる云々《うんぬん》。
庸三がわざと擬装しているとでも思ったらしく、葉子は外へ出てからも、ここで別れる彼を哀れむように自身もいつか自身の言葉に感傷を誘われたふうで話しつづけた。
「じゃもうお別れね。解《わか》って下すったわね。」
彼女は手を延べた。
「さようなら。」
塵除けの翅《はね》を翻して、広小路の方へ歩いて行く彼の後ろに声がした。
しかし二日もたたないのに、庸三はまた呼出し電話の口で、彼女の朗らかな声を耳にした。
「すぐ来て。私お母さんと喧嘩《けんか》して帰って来たの。」
たといどんな条件で別れたにしても、呼び出そうと思えばいつでも呼び出せる庸三だと、葉子は高を括《くく》っていた。それに今度は金の問題があるだけに、取るには取ったが、後の気持に何か滓《おり》が残った。上野で袂《たもと》を別った時の彼の態度も気にかかった。庸三は一応春日の手前も考えてみなければならず、かかる事件の連続にも飽いていたが、別れた時の言葉はまるで忘れたような今の葉子の電話の爽《さわ》やかさには、自身に閉じ籠《こ》もってもいられないような衝動が感じられ、変転|究《きわ》まりない彼女の行動を、つけられるだけは尾《つ》けてみたくもあった。
朝はまだ早かった。秋らしい光線が、枝葉のやや萎《な》えかかった銀杏《いちょう》の街路樹のうえに降り灑《そそ》ぎ、円タクの※[#「※」は「風+昜」、第3水準1−94−7、293−上−11]《あ》げて行く軽い埃《ほこり》も目につくほどだった。旅館は新宿のカフエ街の垠《はず》れの細かい小路にあったが、いつか一度泊まったこともあるので、すぐ円タクを手前まで乗りつけることができたが、車をおりて前まで歩いて行くと、上から葉子の呼ぶ声がした。見あげると手摺《てすり》に両手をついて、下を見ながら笑っ
前へ
次へ
全109ページ中92ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング