ので、この人が中へ入る以上、てこずりぬいたこの問題も何とかきまりがつき、葉子の処置もつくのではないかと思った。それにいくら自分の弱点を掴《つか》まれても春日なら紳士だし、職業範囲外だからかまわないとも考えたのだった。
 それにもかかわらず、葉子が離れて行ったとなると、庸三は何か心が落ち着かなかった。他の誰のところへ行ったよりも安心だとは思いながら、春日夫妻のところへ駈《か》けこんで行ったことを思うと、やっぱり心配であった。今度こそ有耶無耶《うやむや》では済まされず、何か動きの取れない条件がつくものだろうと思うと、今さら寂しかった。夫人がその背後にあって、鍵《かぎ》を握っているということも、想像されなくはなかった。そうでもしてこの際お互いを縛ることが最善の方法だとは承知していたが。――
 間一日おいて、三日目の晩、果して春日がおとずれて来た。ちょうど遊びに来ていた小夜子の帰りがけで、彼女が門を出たとおもう時分に、春日が玄関へ入って来た。
 二人はいつもの心易立《こころやすだ》てでも行かなかった。何か重苦しい雰囲気《ふんいき》のなかに向かい合っていたが、春日は切り出した。
「実は梢さんのことですが……。」
 庸三の認識不足から、二人のあいだに大きな錯誤のあること、彼女自身の立場のますます苦しいことを、葉子が洗い浚《ざら》い一夜泣きながら訴えたことが、春日の容子《ようす》でも大体庸三に想像できた。
「どうです、先生もお困りでしょうから、ここいらで一つ綺麗《きれい》に清算なすっちゃ。それに梢さんちっとも先生を愛しちゃいないようですよ。」
 春日は率直に言うのであったが、約束の金のことも出た。
「それも先生の口から出たことですって? 梢さんはどうしても貰《もら》いたいと言ってるんですが――。」
「いや、僕も実は後をいさぎよくしたいと思うから。」
「そうですね。」
 一両日うちに金を都合するように約束して、じきに二人は別れたのだったが、するとその翌日の晩、庸三が小夜子の家の、いつものぴたぴた水音のする下の小間にいると、思いがけなく大衆作家の神山と春日とがやって来たというので、二階座敷へ行ってみた。庸三は話のついでに葉子の問題に触れて行った。そして少しこだわりをつけた。
「葉子にやる金のことですが、無論やるにはやりますが、何か新しい相手ができているんだったら、ちょっと困るな。それを貴方《あなた》に保証してもらえると大変いいんだが。」
 庸三はこの期《ご》になって、卑小にも春日の腹でも捜《さぐ》っているようで不愉快だったし、先生も汚いなと思われでもしているようで気が差したが、いざとなるとやはり金も惜しかった。
「さあ、僕にもわからないが、そんなことないでしょう。しかし言っときましょう。」
「いずれにしても金は明日お届けします。」
 庸三はその晩神山に送られて家《うち》へ帰って来たが、潮《しお》を見計らって庸三をさそい出した神山と小夜子の狂暴な恋愛も、ちょうどそのころが序曲であった。

 春日夫妻という牆壁《しょうへき》の後ろにある葉子を、覗《のぞ》き見ようとしていろいろに位置をかえて覗こうとするにも似た心持で、事務所で春日に金を渡して別れてから、幾日かたった。春日に金を渡すとき庸三は泣面《べそ》をかいていたが、しかしまた一面には今まで立ち迷っていた雲の割れ目から青い空が見えて来たような感じでもあった。
 すると一週間ばかり過ぎたある日の午後、庸三はまたしても葉子から電話で呼び出された。彼は心に空虚のできたこんな場合の例にもれず、葉子と切れてからしばしば近所の友人の家で遊んでいた。田舎《いなか》丸出しの女中たちの拵《こしら》えてくれる食膳《しょくぜん》に向かうことも憂鬱《ゆううつ》だったが、出癖もついていたせいで、独りで書斎にいると、四面|楚歌《そか》のなかで生きている張り合いもないような気もした。しかしまた人知れぬ反撥心《はんぱつしん》もあって、まだ全く絶望しているのではなく、今までの陰鬱な性格に変化が来るようにも思えた。本を読んでも、今までわからなかったことに新しい興味が出て来たり、熱に浮かされていた青年時代のそれと異《ちが》って、しっくり心と心と取り組めるような感じだった。新規|蒔直《まきなお》しには年を取りすぎた嘆きがあり、準備をするには何から手をつけていいか、今さら見当もつきかねるのだったが、何らかの補足はできそうに思えた。未練がましく生きる醜さにも想い到《いた》ったが、天才の真似《まね》をし損《そこな》いたくもなかった。そんな時生活の裕《ゆた》かな老友の書斎にいると、心境と環境がまるで異っているだけに、いくらか気分が落ちつくのだった。
「また何かあるよ。生活には困らないが、独りも寂しいといったような女も沢山いるよ。」
 友人は言うの
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