隙《ひま》にはわが家のように部屋を掃除したり、庭石や燈籠《とうろう》に水を打ったりして、楽しげな毎日を送っていたが、子供たちが海岸から帰って来ると彼女の気分もがらりと変わるのだった。
 庸三はこの結婚に必ずしも自信がもてると思ったわけでもなく、いずれは若い配偶者のもとに落ち着かなければならない彼女だとは思っていた。それは老年の彼の弱い心にとって、痛いことには違いなかったが、名誉のために結婚を希《ねが》っているらしい彼女の女心を劬《いた》わっておくことも差し当たっての一つの手ではあった。
 ある時二人は高島屋へ行ってみた。卒業に近い女学生と小学生との二人の母なしの娘をひかえている庸三は、そんな場合決して平静ではいられなかった。長女が学校で無言の迫害を受けていることも知っていた。男の子は男の子だけに、消極的にしろ積極的にしろ自身の行動を取ることもできるのだったが、女の子はそういった嵐《あらし》のなかにも、じっと堪え忍んで家を守らなければならなかった。その苦痛は庸三の神経にも刺さった。デパアトなぞへ来てみると一層心が痛み、自身の放肆《ほうし》を恥じ怖《おそ》れた。しかし五月の花のように、幸福に充《み》ち溢《あふ》れた葉子を見ると、鉛のように重い彼の心にも何か弾《はず》みが出て来るのであった。そしてあれこれと式服の模様なぞ見ているうちに、それを着る時の彼女の姿が浮かんで来たりした。柄の選択はすぐ一致した。そしてその時庸三も質素な紬《つむぎ》の紋服を誂《あつら》えた。
 しかしそうしている間にも、二人の気持は絶えずぐらついた。庸三にもどうかして晴れがましい結婚の舞台へ登場することだけは避けたいという気持があり、葉子にもまるでほかのことを考えているような時もあった。
「今度別れるようだったら、またぐずぐずにならないように、誰かしっかりした人を間へ入れよう。」
 庸三が言うと、
「誰がいい?」
 葉子も今にでも別れるように、あっさりしていた。
「春日《かすが》君に委《まか》せよう。あの人ならかねがね僕たちに好意を示してくれているのだし、別れた後も君のことは心配してくれるから。春日君が入ってくれたら、後をいさぎよくしたいから、千円ぐらい上げてもいい。」
「そうお。」
 葉子はにっこりした。今にもその金が使えそうに思えるらしかった。
「でも人に話さないでね。」
「いいとも。僕だって甘すぎるようでいやだから。」
 そうしているうちに、註文《ちゅうもん》の式服が、葉子の希望どおり二三箇所|刺繍《ししゅう》を附け加えて出来あがって来た。庸三はいよいよ脚光を浴びることになりそうに思えて、圧《お》し潰《つぶ》されたような心に、強《し》いて鞭《むち》を当てた。
 庸三はかつて葉子の故郷で、昔、先夫の松川と結婚の夜に着飾ったという、小豆色《あずきいろ》した地のごりごりした小浜の振袖《ふりそで》に、金糸銀糸で千羽|鶴《づる》を刺繍してある帯をしめた彼女と、兄夫婦に妹も加わって、写真を取ったことがあった。それは庸三を迎えた時の彼女の家庭の記念撮影であったが、事によるとそれが本式になるのではないかと思った。
 しかしある時庸三は、長男の庸太郎にだけそのことを告げて、彼の意見を徴しようと思った。
「そうですね、梢さんは別に物質を望むような人でもないでしょうから、差閊《さしつか》えはないと思いますけれど、籍を入れるのだけはどうかな。」
「いけないと思う。」
「まあね。」
 庸三も頷《うなず》いた。
 庸三がそのことを葉子に打ちあけたところで、彼女の表情はにわかに険しくなった。
「庸太郎さんが相続者という立場て、そんなこと言うなら、私も止します。」
「しかし戸籍上の手続きをするというのは、お互いに縛ることだから、君にも不利益じゃないか。」
「それが先生の利己主義というものよ。私もうここにいられない。」
 苛立《いらだ》つときの彼女の神経は、彼にはいつでも堪えがたいものであった。
「じゃ勝手にするさ。」
 庸三の語調も荒かった。
 葉子は旋風のごとく飛び出して行った。

 春日は庸三の亡妻時代からの懇意な弁護士であった。数寄屋河岸《すきやがし》に事務所をもち、かつて骨董癖《こっとうへき》のある英人弁護士の事務所に働いたこともあるので、自分でも下手《げて》ものの骨董品や、異国趣味の室内装飾品などが好きであったが、庸三はある連帯の債務を処理してもらったことから、往来するようになったものだった。それに美貌《びぼう》のその夫人がはからずも葉子の女学生時代の友達であるところから、葉子が庸三のところへ来てからも、同窓生の集りであるお茶の会に呼ばれたこともあり、往《ゆ》きつけのカフエや芝居へ案内されたこともあった。真実《ほんとう》のことはいざ知らず、表面では彼らは二人に好意をもっていた
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