時よりも、その方がかえって庸三の神経に、いくらかの余裕と和《なご》みが与えられるのであった。二人きりの部屋が息詰まるように退屈になって来ると、彼はまた環境の変化を求めないわけにいかなかった。綺麗《きれい》な風呂場《ふろば》や化粧室などの設備のあるところとか、日本風の落着きのいい部屋や庭のあるところとか、世間から隔絶されたひそやかな場所に潜んでいることが、家庭人であった彼の習性をすっかり変えてしまっていた。寄り場のない霊を、彼は辛うじてその刹那々々《せつなせつな》の宿りに落ちつけようとしたが、それは単に気分の一時の変化を楽しむだけで、どこへ行っても寂寥《せきりょう》が彼を待っているにすぎなかった。
あるときも、体の縮まるような渋谷の葉子の家を脱《のが》れて、市外のそうした家の一つにいた。渋谷からそう遠くもなかったし、二三回来たこともあって、葉子をひどく好いている女中とも馴染《なじみ》になっていた。
ある涼しい夕ベ、その部屋に閉じ籠《こ》められていることに、ようやく憂鬱《ゆううつ》を感じはじめていたところで、葉子の充《み》ち足りない気分がまたしても険しくなって来た。折にふれて感情の小鬩合《こぜりあ》いが起こった。庸三からいうと、すでに久しく膠《にかわ》の利かなくなったような二人の間も、わずかに文学というものによって、つまり彼女の作家的野心というようなものによって繋《つな》がれているにすぎず、それさえ思い切れば、彼女はこの恋愛の苦しい擬装からいつでも解放されうるわけであったが、葉子から見れば、この世間しらずの老作家は、臆面《おくめん》もなく人にのしかかって来る、大きな駄々児《だだっこ》であった。彼女は若い愛人を持って行く何の成算もなく、現実の生活について、何ら明確な方針もなしに、徒《いたず》らに恋愛の泥濘《でいねい》に悶※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、287−上−14]《もが》いているにすぎない彼に絶望していたが、下手に背《そむ》けば、逗子事件の失敗を繰り返すにすぎないのであった。
庸三はここを切りあげようと思って、勘定を払って車の来るのを待っていたが、二人の気分には今にも暴風雨になりそうな低気圧が来ていた。
車を待っているあいだに、彼は葉子が女中と縁端《えんばな》で立話をしている隙《すき》にふと思いついて、小夜子の家へ電話をかけてみた。別に葉子に当てつけるわけでもなかったが、彼女の感情を庇護《かば》う余地はなくなっていた。
「マダムいる?」
庸三が微声《こごえ》できくと、
「ああ、先生ですか。マダムは昨夜静岡へ立ちましたの。」
静岡には小夜子の種違いの、多額納税者の姉が、とかく病気がちに暮らしていた。
「でもいらっしゃいませんか。今どこですの。」
「そうね。」
いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。
「どこへかけたの。」
「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」
やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。
スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。濡《ぬ》れた葉子の顔の覗《のぞ》いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を尾《つ》ける番だった。
二十二
世間的にも私生活的にももはや収拾のつかなくなった二人の立場を、擬装的にでも落ち着かせようとして、二人のあいだに結婚|談《ばなし》の持ちあがったのもまたそのころのことであった。そんな心持は庸三が最初葉子の田舎《いなか》へ招かれた時にも、彼女の母たちにはあった。そして庸三の出方一つで母方の叔父《おじ》が話しを決めに来るはずであった。しかし庸三の気持はそこまで進んでいないのであった。今庸三がその気になったのは、長いあいだの痴情の惰性で、利害を判別する理性の目が曇ったからでもあったが、恋愛の惨《みじ》めな頽勢《たいせい》を多少なりとも世間的に持ち直そうとする愚かな虚栄と意地からであった。
「先生が亡くなっても、私がさっそく困らないように心配していただけるのでしたら、叔父も賛成してくれますわ。」
葉子は言うのだったが、庸三も三つの書店から来る印税の一番小額な分の残額くらいは、それに当てておいてもいいと思った。
そのころ葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳の方を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み耽《ふ》けり、その
前へ
次へ
全109ページ中89ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング