しの愚かな大名の美しい思いものが、柳眉《りゅうび》を逆立て、わがままを言い募る時の険しい美しさで。庸三はこれには手向かうことができなかった。
 彼はデパアトから届いたその浴衣の一反を娘に、一反を小夜子に与えた。娘も小夜子もすでに仕立てて着ていた。庸三はその通り話した。娘に着せるのは当然だが、あの水ぎわの女などにやる法はないと言うので、葉子はヒステリイのように怒った。
「だって仕方がない。君とは別れていたのだから。」
「それにしても私が気持悪くおもうくらいのことは、考えてくれたってよかったじゃないの。あんな女にもったいないわよ。」
「じゃ一反買えばいい。」
「買ったのは欲しくはないわ。あれを取り戻してよ。」
「今でなくてもいいじゃないか。」
 庸三は呟《つぶや》きながらも、仕方なし二三行書いたが、葉子は一応文句に目を通すと、やっと安心したように、封筒の表書のできるのを待って、画家の北山菊野に円タク賃をもたせて、小夜子のところへ使いにやった。
 外は日盛りだったが、部屋のなかは涼しかった。庸三は床の黒柿《くろがき》の框《かまち》を枕《まくら》にしてしばらく頭を休めていたが、するうち葉子と瑠美子との次ぎの間の話し声を夢幻に聞きながらうとうと眠ってしまった。そして目がさめた時には、北山はもう浴衣をもって帰っていた。
「ちょうどあの人が外出しようとしているところだったんですて。芝の四国町《しこくまち》まで行くから、あの辺までお乗りなさいといわれて、北山さん一緒に乗って来たんですて。」
 そう言って葉子は包装紙にくるんで寄越《よこ》した浴衣を、そこへ拡《ひろ》げていたが、
「あの人|目容《めつき》がなかなか油断ならないって、北山さんがそう言っていますよ。」
 庸三もちらちら動きの多い小夜子の黒い瞳《ひとみ》が、どうかすると冷たい光を放って、その瞬間昔の妖婦《ようふ》を想像させるような美しさを見せることは知っていたが、それも、葉子などとはちがって、長いあいだのそうした職業から鍛えられた、どこか蕊《しん》に鋼鉄のような堅固なところをもっているからのことで、不良少女団長時代の可憐《かれん》な性情は今でも残っていた。
「梢さんしっかりしなくちゃ駄目よなんて、今菊野さんに言われたわ。」
 そう言う葉子の言葉のうちには、明らかに小夜子への敵対観念が含まれていたが、それも小夜子を恋敵《こいがたき》としての感情というより、文壇や画壇の人で、いつも華《はな》やかに賑《にぎ》わっている小夜子の家《うち》の雰囲気《ふんいき》が、何となく不安な感じを与えたからであった。
 浴衣《ゆかた》は潮色《うしおいろ》の地に、山の井の井桁《いげた》と秋草とを白で抜いたものだったが、葉子にもよく映るような柄合いであった。彼女はちょっと肩にかけて見ていたが、一度でも小夜子の手を通したものだと思うと、矜《ほこ》りが傷つけられるとでも思ったらしく、いきなり揉《も》みくしゃに揉みほごすと、ヒステリックな表情でつかつか庭へおり立って下駄《げた》で踏みつけた。庸三は呆気《あっけ》に取られて見ていたが、彼女はそれでも飽き足らず、上へあがってマッチを取ると、再び庭へおりて火をつけはじめた。白い煙を※[#「※」は「風+昜」、第3水準1−94−7、286−上−12]《あ》げて浴衣はめらめらと燃えて行ったが、燃えのこりの部分の燻《くすぶ》っているのを、さらに棒片《ぼうきれ》で掻《か》きたてていた。
 終《しま》いに葉子は少し空虚を感じ始めて来たものらしく、そっと灰を掻きあつめてから、すごすご縁へ上がって来た。
「私が先生を取るなんて、貴女《あなた》も随分|妄想家《もうそうか》ね。」
 どこかでそう言って喋《しゃべ》っている小夜子のちらちらする目が、庸三の頭に浮かんで来た。

 しかし五六日もいると、この生活もやがて慵《ものう》くなって来た。可憐《かれん》な暴君である葉子のとげとげしい神経に触れることも厭《いと》わしかった。それでいて彼はやっぱり彼女の黒い目や、惑わしい曲線の美しさをもった頬《ほお》や、日本画風の繊細な感じに富んだ手や脚に惑溺《わくでき》していた。商売人あがりの小夜子には求められない魅力を惜しまないわけに行かなかった。嫌悪《けんお》と愛執との交錯した、悲痛な思いに引き摺《ず》られていた。時はすでに遠く過ぎ去っていることも解《わか》っていたが、それだけに低徊《ていかい》の情も断ち切りがたいものであった。
 それなのに庸三はしばしば飽満の情に疲れて、救いの第三者の現われることを希《ねが》った。自分の友達であると葉子の友達であるとにかかわらず、話相手の若い人や女性の座にいるときが望ましかった。そうした場合庸三はいつも無口で、葉子が客の朗らかな談敵《はなしあいて》になるのであったが、差向いの
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