も乗ってドアをがちゃんと締めた。庸三はいくらか薄気味わるくも感じたが、好奇心も働いたので黙ってするままにしていた。
「一体どこにいるの? やっぱり逗子?」
「いいえ、あすこは最近引き払いましたのよ。それで今は渋谷《しぶや》に一軒手頃な家をかりていますの。どうせ手狭なものですけれど、でもちょっと手のかかった落着きのいい座敷もございますのよ。お庭も隣りの植木屋さんのにつづいて、さざん花や碧梧《あおぎり》や萩《はぎ》など、ちょっと風情《ふぜい》がありますのよ。あすこでしたら、きっと落ち着いてお書きになれますわ。だからぜひ一度先生をお迎いしたいと思いまして……。これから行きましょう。」
「さあね。」
 庸三は何か擽《くすぐ》ったい思いで、呪《のろ》わしいあの事件の附け足しが初まるのではないかという不安と、どうして彼女の態度がこう慇懃《いんぎん》になって来たものかという不思議とで、頭脳《あたま》が一杯で、彼女の気持を判断するだけの余裕もなかった。この場合に限らず彼は元来直面した現実の意味をその時即座に理解するだけの聡明《そうめい》を欠いていた。それゆえ葉子が世間の風評に誤まられて、例の川沿いの家のマダムの小夜子と庸三とのあいだに、何か恋愛関係でもすでに生じているかのように考えたか、またそこまでではなくとも、二人のあいだに何かそういった事件が起こるであろうことを予測したか、いずれにしてもそれが由々しき大事件ででもあるように思って、さてこそ庸三を自分の家へ拉《らっ》し去ろうとしたのであったが、それは葉子の文学少女らしい思い過ごしにほかならないで、庸三と小夜子のあいだは、待合のマダムと客というにはやや親密すぎる程度の遊び友達という以上の何物でもなかった。もちろん庸三はそうした恋愛のトリックなどにも疎《うと》いので、小夜子との交遊を、葉子|牽制《けんせい》のカモフラジュに役立てるようなこともなかったが、別に秘密にしておくほどのことでもなかった。
 とにかく渋谷の家へ、彼は誘われた。通りを少し離れて樹立《こだち》の深い高みの場所にその家があった。そして葉子の言葉どおりちょっと住み心地《ごこち》のいい間取りで、玄関を上がって、椅子《いす》や卓子《テイブル》のほどよく配置されたサロンを廊下へ出て、奥の方へ行くと、そこに住居《すまい》の方と懸《か》け離れた十畳の座敷があり、木口がいいのと床の高いのが感じがよかった。カアテンとかテイブルセンタアとか、童話趣味の装飾も彼女らしい好みであったが、奥の一部屋だけは、不釣合いに厳《いか》つい床や袋|戸棚《とだな》などちょっと擬ったところがあった。
「さあどうぞ。」
 葉子は縁に近い処《ところ》へ座蒲団《ざぶとん》を持ち出して、かつて自分の田舎《いなか》の家へ招いた時以上にも気を配って、庸三を居馴染《いなじ》ませようとした。例の小樽《おたる》以来の乾児格《こぶんかく》の女流画家や瑠美子もいた。
「小父ちゃん今日《こんち》は。」
 瑠美子は側へ来て、いつかのことも忘れたように、にこにこしていた。
 ルッソオやトルストイの話もここでは出なかったし、晩飯の支度《したく》に働きながら、かつて逗子の家へ彼をつれて行った時と、少しもかわらない調子で、やがて晩餐《ばんさん》の支度に立ち働いていたが、何か融《と》け合えないことが、二人のあいだに挟《はさ》まっていた。庸三はせっかく親しみかけて来た家庭や書斎を、またしても遠ざかって来たような感じで、寛《くつろ》ぐ気持にもなれなかった。これからまたどういうことになるのか、その見透しさえもつかなかったが、差し当たりそれを考える必要もなかった。
 やがて晩飯がはじまった。そしてそれがすむと、瑠美子の童謡舞踊なんかに笑い興じて、しばらく雑談に花が咲いた。新聞の小説の噂《うわさ》、文壇のゴシップ、円本の売れ高、等々。
「そのうち一度二日会のピクニックおやりになりません?」
「ああ、そうね。」
「玉川あたりどうですの。網船を※[#「※」は「にんべん+就」、第3水準1−14−40、284−下−17]《やと》って一日楽しく遊びましょう。私もしばらく皆さんにお目にかからないわ。ぜひやりましょう。私通知出すわ。」

 いつもの彼の姑息《こそく》で、そうしているうちに幾日かの日がたってから、ある時葉子が思い出したように庸三を詰問した。
「いつか先生のところに、まつ屋の浴衣《ゆかた》があったでしょう。あれどうなすって? 私一反ほしいわ。」
 その浴衣地というのは、そのころ誰かの思いつきでデパアトとタイアップで工夫されたもので、作家たちの意匠に成るものであった。庸三も自作の俳句を図案にという註文《ちゅうもん》で、それを葉子が工夫したのであった。
 詰問する葉子の顔は、たちまち険悪の形相をおびて来た。ちょうど昔
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