。
庸三はホテルのサルンへ顔出しするのも憚《はば》かられたが、ちょうど空腹も感じていたので、しばらくぶりで食堂へ入ってみたくもなった。ホテルではラジオも聞けたし、註文《ちゅうもん》すればバスも用意してくれた。
恋愛事件前後、瑠美子は師匠のところへ還《かえ》っていた。二人は内から門に錠をおろして、地続きの隣りの木戸から出た。そして砂地の道を横切ってだらだらした坂をのぼると、そこがホテルの玄関であった。ラジオは洋楽の演奏であった。庸三は震災前に、庸太郎によってやっと世界の偉大な音楽家の名や曲目を覚えはじめ、子供の時から聞き馴染《なじ》んで来た義太夫《ぎだゆう》や常磐津《ときわず》が、ビゼイやモツアルトと交替しかけていた時分だったが、この音楽ほど新旧の時代感覚を分明に仕切っているものはなかった。
食堂の開くのにはまだ少し間があった。庸三はサルンの片隅《かたすみ》に椅子《いす》を取ったが、葉子も少し離れたところで、ラジオを聴《き》いていた。彼女は何かしらトリオらしい室内楽の美しい旋律のなかから、自身の夢想を引き出そうとするように耳を聳《そばだ》てていたが、楽器の音を聴いていると、少し頭脳《あたま》が安まるくらいの程度であった。
撞球室《どうきゅうしつ》の入口のドアの上部の磨硝子《すりガラス》に明りがさして、球の音も微《かす》かに洩《も》れて来た。庸三はどこかそこいらにかの青年の幻がいるような気もしたが、葉子が逗子に行かない前から彼の予感にあったあの恋愛も、現実面へ持ち来たらせられてみると、ひとたまりもなく砕けてしまったのであった。庸三がその結婚の実を結ぶことを希《ねが》ったのは嘘ではなかったが、巧く行きそうもないことを望んだのも真実であった。
二人はやがて食堂にいた。
「君はマルクス勉強するつもりだったの。」
庸三は葡萄酒《ぶどうしゅ》のコップを手にしながら、揶揄《からか》い面《がお》で訊いてみた。
「私がお嬢さんすぎると言うんでしょう。あの人だって坊っちゃんよ。」
プロレタリヤ運動もまた目に立つほど興《おこ》っていない時分のことで、庸三はマルクスの学説のどんなものだかも知らなかったが、そういった時代の一つの雰囲気《ふんいき》には胸を衝《つ》かれた。かつて草葉《そうよう》が画《え》をかいてやると言って、葉子から白地の錦紗《きんしゃ》の反物を取り放しにしているということから、あの人たちにはすでにそういった、有る処《ところ》から取ってやるのが当然だという、生活の必要から割り出された太《ふ》て腐れの感情があるのだと、葉子は話して、
「草葉さんはいつ約束の金をくれるんだと言って、よく催促したものよ。私が母からもらって持って行ったお金もみんな使ってしまって。」
しかしこのマルクス・ボオイもブルジョアの一人|息子《むすこ》だけに、葉子が想像したほど、内容にぶつかって行くのは容易でなかった。そうするのはやはり普通の世間の令嬢のような、舅姑《しゅうとしゅうとめ》にも柔順で、生活も質素な幾年かを、じっと辛抱しなければならないのであった。恋愛だけを切り放して考えることもできなかった。
ある日の午後、庸三と葉子はまだ秋草には少し早い百花園を逍遙《しょうよう》していたが、楽焼《らくや》きに二人で句や歌を書きなどしてから、すぐ近くの鳥金へ飯を食べに寄ってみた。そこは古くからある有名な家《うち》で、どこにいても誰とも顔の合うことのないように、廊下や小庭で仕切られた芝居の大道具のような古風な幾つかの部屋をもった落着きのいい家であった。
いつかも月の好い秋の晩に、水の好きな葉子に促がされて、濛靄《もや》のかかった長い土手を白髯橋《しらひげばし》までドライブして、ここで泊まったことがあったが、怪談物の芝居にあるような、天井の低い、燻《いぶ》しのかかった薄暗い部屋で、葉子はわざと顔一杯に髪を振り乱して、彼にのしかかって来たりしたのだったが、すでに二つの恋愛事件で、自身も苦しみ庸三もさんざん苦い汁《しる》をなめて、憎悪の言葉さえ投げつけたあとでは、気分の融《と》けあうはずもなかった。
名物の蜆汁《しじみじる》だの看板の芋の煮ころがしに、刺身鳥わさなどで、酒も二猪口《ふたちょこ》三猪口口にしたが、佞媚《ねいび》な言葉のうちに、やり場のない怨恨を含んで、飲みつけもしない酒の酔いに目の縁をほんのりと紅《あか》くした葉子が、どうかするとあの時の新聞記事のことで、ちくちく愚痴をこぼすので、庸三は終《しま》いにはただ卑屈に弁解ばかりもしていられなかった。
風呂《ふろ》に入ってから、二人はいつかの陰気な居間で休んだのだったが、しばらくすると葉子は細紐《ほそひも》をもって彼にのしかかって来たかと思うと、悪ふざけとも思えない目色《めつき》をして、それを庸三の首に捲
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