のに触るように庸三を取り扱ったが、ぷすぷす燻《くすぶ》る憎悪の念をどうすることもできなかった。庸三も、最後は潔《いさぎ》よくするつもりで、ちょうど昔から女には好意をもたれないように生まれついているものと、自分で決めていたと同じ自己否定の観念や、年齢や生活条件もそれに加算してのうえで、肚《はら》を決めていたのであったが、そっと一言二言批判がましいことを、談話のあとで口にしたことが、葉村氏の筆であんなふうに誇張されてみると、葉子と差向いにいても、卑劣な腸《はらわた》を見透かされるようで、いつも苦りきったような顔をしているよりほかなかった。
 ある日鵠沼にいる例の黒須がひょっこり訪ねて来た。ちょうどその時葉子は籠《かご》から逃げた一羽生きのこりのカナリヤの雄を追っかけて、スリッパのまま隣りの空地《あきち》まで捜しに出ていた。どうしたのか籠の戸口が少し透いていた。庸三も一緒に縁におりて、珊瑚樹《さんごじゅ》の垣根《かきね》や、隣りの松や槻《けやき》のような木の梢《こずえ》を下から見あげていた。葉子が博士《はかせ》と別れてここへ来るとき贈られたものだということが、頭に閃《ひら》めいて、それも一羽は一月前に死んだ後を独り侘《わび》しく暮らしていた哀れな雄の方が、広い自然を目がけて飛び出して行ったもので、翅《はね》の自由が利くかどうかもわからなかった。葉子はあの短時日の単純で朗らかな恋愛の思い出を、今はこれまで経て来た数々の恋愛のなかでは、相手が相手だけにちょっと微笑《ほほえ》ましいものにも思い、苦難の多い庸三との生活の途中における楽しい一つの插話《そうわ》として、記念のカナリヤを眺めていたのだったが、逃げられてみると、はっとしてあわてたのであった。どこを捜しても、梢や草を渡る寂しい風の音ばかりで、どこかに立ち辣《すく》んでいるであろうとは思いながらも、思い切らないわけに行かなかった。
「死ぬより逃げられた方が増しだよ。」
 庸三は呟《つぶや》いたが、葉子もこだわりはしなかった。
 縁側へ上がって裾《すそ》についた草の実を払っているところへ、黒須が来たのであった。もうその時分は郷里からつれて来た女中もいなかった。彼女は新らしいハッピを着た、まだ四十にはならない職人風の父親が、わざわざ逗子まで来て連れ帰った。その時葉子は海岸の砂丘にいたが、今度の恋愛事件で、郷里の新聞がまたしても筆に火花を散らして書き立てた結果だということが解《わか》るし、母や兄がまたどんなに困っているかということも想像できるので、不断の葉子なら遠くからやって来たこの父親を、そのまま帰すはずもなかったが、彼の姿を見ると、ちょっと頬《ほお》を染めただけで、顔も見せないようにしていた。少し離れていた庸三も見て見ぬふりをしていた。
「縁談があるんですって。」
 葉子は言っていたが、東京では若い人たちに騒がれていた、いつも葉子に忠実であった彼女も、汽車の時間の都合で、挨拶《あいさつ》する隙《ひま》もなく連れて行かれてしまったのであった。
 葉子が玄関わきのサロンで黒須に逢《あ》っているあいだ、庸三は奥の座敷で莨《たばこ》をふかしていた。二人の話し声が聞こえ、軽い葉子の笑い声もしたが、何を話しているかは解らなかった。
「カフエでも出すなら、金はどうにでもする。貴女《あなた》ならきっとさかるに違いない。――あの人そんなこと言ってるの。」
 黒須を帰してから葉子は庸三の傍《そば》へ来て言うのであった。
「でもあの人たちとうっかり組めないくらいのことは、私にだって分かっているわ。」
 葉子は笑っていた。
「そうそう、あの男あの事件の直後、僕の留守へ三四人でやって来て、ひどく子供を脅《おど》かして行ったそうだよ。留守をつかうんだろうとか、お前の親父《おやじ》の名声ももう地に墜《お》ちたとか言って……。あの朝の旅館の会見が、悪い印象を与えたんだ。あの恋愛も、僕が君の背後にいて画策したんだというふうに気を廻してしまったんだ。」
「今は何でもないんだけれど。」
 庸三もあの時、新聞社の客間では、お互いに笑って会釈したくらいだった。
 日暮方になると、二人は何か憂鬱《ゆううつ》になった。二人きりの世界の楽しい瞬間もあるにはあったが、永く差し向いでいるときまってやり場のない鬱陶《うっとう》しさを感ずるのが、庸三の習癖であった。理由もなく何か満ち足りない感じがいつもしていたし、世間からの呪詛《じゅそ》や、子供たちの悩みも思われて、彼の神経はいつも刃物をもって追い駈《か》けられているにも比《ひと》しい不安に怯《おび》えていた。それでなくとも、眩惑《げんわく》の底に流れているものは、いつも寂しい空虚感で、それを紛らすためには、絶えず違った環境が望ましかった。
「ちょっとホテルヘ行ってみない?」
 葉子は誘った
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