三と悪気のない挨拶《あいさつ》を交すと、間もなく姿を消した。
「さあ梢さん、貴女《あなた》はこっちがいい。」
 小肥《こぶと》りに肥った丸顔の木元主任は、葉子を大きい肱掛《ひじか》け椅子に腰かけさせた。彼は初めて見る葉子の美しさに魅せられた形で、
「いや、世間から何といわれても、貴方《あなた》は幸福ですよ。」
 と庸三にそっと呟《つぶや》いた。庸三は、これもずっと後に葉子が銀座の酒場へ現われたとき、この男も定連の一人で、何か葉子の親切な相談相手になってやっているという噂を耳にしたけれど、何か微笑《ほほえ》ましい感じで、いやな気持がしなかった。
 葉子も主任の問いに答えて、彼女一流の雰囲気《ふんいき》の含まれた言葉で、恋愛も恋愛だが、生活や母性愛の悩みもあって、今までの生活は行き塞《づ》まりが来たので、打開の道を求めようとしたのが、何といっても文学が生命なのだし、新しい結婚問題がどうなるにしても、やはり庸三に頼って行くよりほかないのだといった意味を述べていた。彼女は黒い羽織で顔の輪廓《りんかく》がひとしお鮮かで、頬《ほお》まで垂れた黒髪の下から、滑《なめ》らかな黒耀石《こくようせき》のような目が、長い睫毛《まつげ》の陰に大きく潤い輝いていた。
 庸三も「現在の貴方の心境は」なぞと訊《き》かれて当惑した。
「こういうことになると、誰しも未練の残るのは当然でしょう。結婚が円満に運ぶようにというのは嘘じゃないですかね。やっぱり梢さんは貴方が持って行かれた方がいいのじゃないですか。」
 主任は突っ込んだ。
「いや、この結婚は順調に運ぶようにというのが私の本心なのです。清算するつもりだからこそ批判もしたので。」
 庸三はこの恋愛のわずかにはかない虚栄にすぎないことも知っていたが、それも惨《みじ》めな未練の変装だかも知れなかった。
 電話のかかって来たとき、庸三はちょうど部屋にいて、今日あたり何か言って来そうな気がしていた。で、下宿の電話室へ行ってみるとやっぱり葉子の声だった。
「先生、私よ。今新橋にいるんですけれど、これからモナミへいらっしゃれない!」
 その声はやはり耳に楽しかった。
「そう、行ってもいい。」
「じゃすぐね。きっとよ。」
 葉子はおきまりを言って電話を切った。
 庸三は部屋へ還《かえ》って支度《したく》をしたが、しかし何となく億劫《おっくう》でもあった。火に生命《いのち》を取られる虫のような焦燥《しょうそう》もいつか失われていたので、電話の刺戟《しげき》はあったけれど、心は煮えきらなかった。いつまでこんなことがつづくのかと思われた。
 ちょうど晩飯時分だったので、まだ店を開いて間もないほどのモナミは人が一杯であった。いつも二階なので、階段を上がりざまに下へ目をやると、そこに見知りの女の顔が擽《くすぐ》ったそうに笑っていた。庸三は笑《え》みかえす余裕も失って、そのまま上がって行ったが、食堂はがらんとしていて、葉子もまだ来ていなかった。窓ぎわの食卓に就《つ》いて、煙草《たばこ》を一本ふかしたころに、やがて葉子が現われた。
「ごめんなさい、ちょっと、ハルミへ寄ったものだから。」
 葉子はあの時のことを想《おも》い出しもしないふうだったが、いくらか気が置けるらしかった。庸三も気が弾《はず》まなかった。
「結婚はどうなったかしら。」
「家がいつ売れるか知れないんですもの。その間私たち黒須さんの家《うち》へお預けでしょう。」
 葉子は苦笑していたが、そこへ青磁色したスウブが運ばれた。ナプキンを腕にした、脊《せ》の高い給仕が少し距離をおいて立っているので、話はそれきりになった。
「逗子の海ももうすっかりさびれてよ。もうあの人もやって来ませんから、先生お仕事をお持ちになってまたいらしてね。私の名誉|恢復《かいふく》のためにも当分それが必要だとお思いにならない? 御飯たべたら活動でも見て、一緒に行って下さるわねえ。」
「行ってもいいけれど……。」
 チキン・ソオテにフォクをつけながら、庸三は生返事をした。ああした事件の後の、葉子の海岸の家を考えるとなおさら憂鬱《ゆううつ》であった。
 ちょうど葉子がパフをつかってから、二人で食卓を離れるころに、客が一組あがって来たので庸三は急いで階段をおりた。あの事件以来、彼は一層肩身の狭さを感じた。

 この先き庸三との関係がどのくらい続くものかは、葉子にも見当がつかなかったが、どんな場合にも――たとい彼女と第三者とのあいだに、さらに新しい恋愛が発生したとしても、師は師として崇《あが》めると同時に、庸三も苦しいなりにもとにかく師父としての立場で愛情と保護を加えることを惜しまないであろうことを期待したのだったが、結果があんなふうになった以上、当分庸三を擬装の道具につかうよりほかなかった。彼女は腫《は》れも
前へ 次へ
全109ページ中82ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング