》の縁《へり》に内から錠がかかるような仕掛になっていたが、部屋は物堅い感じの野暮くさいもので、何の風情《ふぜい》もなかった。
残暑はまだ哀えなかった。煽風器《せんぷうき》はもう片寄せられて、床の籠《かご》花生けに秋草が插《さ》されてあったが、庸三は心も体も疲れていた。鏡を離れた葉子はしろしろした頬《ほお》に淡紅《うすあか》い紅を差して、昨夜の泣き濡《ぬ》れた顔とは、まるで見違えるようになっていたが、額に悲痛な曇りを帯びていた。
やがてトオストに二皿ばかりの軽い食事を取った。
「これから新聞社へ行ってね。」
「そうね。行ったところで恥の上塗りをするようなことになるんじゃないかと思うけれど。それに取り消しを出すったってほんの形式だけだから。」
「じゃ私はどうすればいいんでしょう。先生の気持はよく解《わか》るけれど、ジャアナリストの手に乗るということがありますかよ。あの人たちだって、まさか先生のしゃべりもしないことを書き立てはしないですもの。このままじゃ、私の運命は滅茶々々《めちゃめちゃ》だわ。先生のおしゃべり一つで、私が世の中から葬られるなんて惨《みじ》めじゃないの。」
「しかし結婚は……。」
「それどこじゃないわ。私あの人たちに顔も合わせられないわ。それにああいうブルジョウアは、中へ入ってみるとやはりいやなものなのよ。あの人だってどこの株がどうだとか、そんな話しているのよ。」
すぐ昼になった。昨夜葉子は一時ひどくヒステリックになって、庸三の万年筆の軸を二つに折ってしまったので、彼は少し書くつもりで原稿紙を拡《ひろ》げたのであったが、そのままになってしまった。葉子は折れた万年筆を叩《たた》きつけて、インキの壜《びん》も破《わ》ってしまった。インキがたらたら畳のうえにまで滾《こぼ》れた。庸三は今朝《けさ》電車通りの文房具屋から万年筆を持ちこませて、一本買ったのであったが、ついでに軸の透明な女持を一本葉子にも取った。しかし今日起きてみても、原稿紙を拡げる気分にもなれなかったので、それはそれとしてとにかく新聞社へ電話ででも掛け合ってみるよりほかなかった。
電話は段梯子《だんばしご》をおりた処《ところ》の、ちょっと入りこんだ薄暗い蒲団《ふとん》部屋の外側の壁にあった。葉子も降りて来て傍《そば》で監視した。葉村氏はいなかったが、社会部の主任らしい人がやがて出て来たところが、庸三はあの記事が自分の本意でないことを訴えた。
「葉村君は私の気持を少し好意的に酌《く》みすぎたんですよ。あれじゃ全然葉子を叩き潰《つぶ》すようなもので、私も寝醒《ねざ》めが悪くて仕様がありませんから。一つ取り消していただきたいと思って……。」
「そうですかね。しかし取消しはどうですかね。社の方でもよくよくの間違いでもなければ、一度出したものは取り消しはしないことになっているんですがね。あれはあれでいいじゃありませんか。」
「いや、困るんです。葉子よりも僕の立場がなくなるんで。」
しばらく話が入り乱れたが、傍に葉子が耳を苛々《いらいら》させているので、庸三も少し逆上気味になっていた。それに電話が遠くなって、何か雑音が混じり込んだりしたので、急所がはっきりしかねた。やがて庸三は受話機を措《お》いた。そして、廊下の端に誰か立聴《たちぎ》きしているのに気がつくと、急いで二階へ上がった。
「駄目。」
庸三は投げ出すように言った。
葉子が黒須を動かして、彼の知っている、その新聞社の上層部の好意で、特別に記事の訂正かたがた葉子のために記事の載せられたのは、それから間もなくであった。
逗子の海岸にもいつしか秋風が吹いていた。
そのころになって、庸三はまたしても葉子の家に寝食することになった。
「当分またしばらく行っていてやらなけりゃならないからね、留守をよく気をつけて。」
庸三は家《うち》を出るとき、そう言って長男に後事を托《たく》した。訂正の記事は出したにしても、それは苦しまぎれの糊塗的《ことてき》なもので、葉子は社会的には全く打ちのめされた形だった。
訂正記事は、新聞社の会議室で作られ、黒須もりゅうとした羽織|袴《はかま》に黒足袋《くろたび》という打扮《いでたち》で、そう言えばどこか院外団の親分らしい風姿で立ち会ったが、庸三にしてみれば、前の記事を塗りつぶすのは、そうたやすいことでもなかったし、葉子側に立っている黒須も来ている時に、記者に談話を取られるのは、あまり見よい図ではなかった。もちろん前もって葉子からその話はあった。彼女は庸三に屈辱感を抱《いだ》かせないために、細心の注意を払うことを忘れなかった。
約束の時間に、庸三が行った時には、葉子はまだ来ていなかったが、主任の木元氏としばらく話しているうちにやって来た。黒須もにこにこしながら入って来たが、庸
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