》のことが思い出された。
「あの人芝居道の人なんかと、この家へ遊びに来たものなのよ。」
やがて玄関の方の戸があいたので、そこから上がって、奥二階の静かな部屋へ落ち着いた。
「何か食べたい。先生どう。」
「食べてもいいね。」
葉子は手提《てさげ》のなかから、ペンとノオトの紙片《かみきれ》を取り出して、三四品|註《あつら》えの料理を書いて女中に渡した。
「御酒は。」
女中が訊《き》くので、
「少し飲みたいの。一本でいいわ。遅くにすみませんけれど。」
四皿の洋食が来るまでには、少し間《ま》もあった。庸三は痛いところに触られまいとして、わざと態度を崩さないように構えていたが、葉子はじりじりする気持をわざと抑えるようにしていながら、それとなし記事に触れて行こうとした。
「みんなそう言ってたわ、あの記事少し酷《ひど》いって。日頃の先生にも似合わない仕打ちだって。」
「あれは葉村君の感違いだよ。」
「だからいつも言ってるじゃありませんか。新聞社の人には一切|逢《あ》わないことにして下さらなくちゃ困りますって。」
「それも場合と相手によるんだ。葉村君ならきっと有利に書いてくれると思ったんだ。僕も繰りかえしてそれを言ったんだが、後で少しばかりの君の批評はしたんだ。しかしあれも今まで新聞に書かれた以上に悪いとも思えないな。」
「世間は何と言ってもいいのよ。先生の口から出たということが重大なのよ。」
「しかしそれが不当な悪口だったら、非難されるのは僕じゃないか。」
「先生は大家よ。私なんかと一つには言えないじゃありませんか。こんな時こそ、私を庇護《かば》ってくれなきゃいけない人なのに、先生は私を突き落とすようなことをしたのよ。先生の言葉一つで、私の運命は狂わせることもできるのよ。」
「僕の言ったことに、そんなに悪意があるとは思わないな。」
そこへ洋食と酒が持ちこまれて来た。
「御免なさいね。こんな話よしましょうね。」
女中は煙草《たばこ》の灰の散った食卓に台拭巾《だいぶきん》をかけて、そこへ通しものと猪口《ちょく》と箸《はし》とを並べた。
初めから解りきったことだったが、葉子にまくし立てられては、防ぎの手はなかった。しかし今夜の彼女は、捲《まく》し立てるには痛手を負いすぎていた。それに今の場合、葉子にとってもっとも大切なことは善後策であった。そしてそれには庸三をして庸三の過《あやま》ちを償わせることが、何よりも必要だと思われた。
そうしているうちにも、葉子は時々聞こえる自動車のサイレンや爆音に聴耳《ききみみ》を立てていた。彼女の神経に、それが黒須の追迹《ついせき》のように思えてならなかった。世間のすべてが――庸三すらもが今は彼女を迫害するのであった。
二十
露骨な争いと、擬装の和解との息詰まるような一夜が明けた。葉子は庸三によって新聞の記事を何とかできるだけ有利に糊塗《こと》しなければならなかったが、庸三もこうして彼女に捉《つか》まった以上逃げをうつ手はなかった。
十時ごろに目がさめると、葉子はトイレット・ケイスの中から化粧道具を取り出して、顔を直していたが、火鉢《ひばち》のなかから鏝《こて》を取り出すと、カモフラジュの形で、わざと手のとどかないところを庸三に手伝わせたりした。庸三は前にも一度、どこかのホテルで鏝をかけさせられたことがあったが、葉子が耳にかぶさるまで蓬々《ぼうぼう》と延びた彼の髪を彼女流に刈り込むようには器用に行かないので、熱い鏝の端が思わず頸《くび》に触って、彼女は飛びあがって絶叫したことがあった。葉子はいつも自身の幻影に酔っていたし、しばしば鏡にうつる黒い深い目にいとおしく見惚《みと》れて「ちょっと見て。私今日美しいわ」などと無邪気に呟《つぶや》くのだった。庸三もそれはそうだと思いこんでいたが、しかし鏝にさわられて絶叫した時のような瞬間々々の表情の美しさをもちろん彼女自身に見ることはできなかった。庸三はもちろん他の男にも同じ表情をしあるいはもっと哀切|凄婉《せいえん》な眉目《びもく》を見せるであろう瞬間を、しばしば想像したものだったが、昨夜のように気分の険しさの魅惑にも引かれた。
昨夜連れこまれた時から、庸三は何か胡散《うさん》な気分をこの家に感じていた。ずっと後になってからここのお神《かみ》の口から洩れたことだと言って、そのころ葉子は例の外科の博士《はかせ》をここへ連れこんで来たものだが、他にも若い人と一緒にタキシイを乗りつけたりした。庸三はこの家が彼以前の葉子の愛人の遊び場所だことは、連れて来られた瞬間に気づいたことだったが、そこまで恥知らずの彼女とも思わなかった。しかし、彼は女中やお神に顔を見られるのがいやさに、わざと葉子を床の前にすわらせて、自身は入口を後ろにしていた。入口の襖《ふすま
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