《ま》きつけてしまった。
「わたし先生を殺すかもしれないことよ。殺しても飽き足りないくらいよ。」
葉子はぎゅうぎゅう紐を締めた。
庸三は笑っているような泣いているような、目も口も引き釣った葉子の顔を下からじっと見詰めながら笑っていた。
「ああいいよ、殺したって。」
葉子は馬乗りになって、紐を少し緩《ゆる》めたり、強く締めたりしていたが、終いに庸三も呼吸が苦しくなって来たので、痛そうに顔を顰《しか》めて紐へ手をかけた。
紐をゆるめて跳《は》ね返るまでには、半分は本気で半分は笑談《じょうだん》のような無言の争闘がしばらく続いたが、起きあがってみると、ぐったりとした吭笛《のどぶえ》のところは、手でさわったり唾《つば》を呑《の》みこんだりするたびに、腫物《はれもの》のような軽い痛みを感じた。
葉子の目に、そこに憎みきれない狡獪《わるごす》い老人が、いくらか照れかくしに咽喉《のど》を撫《な》ぜ撫ぜ坐っていた。
二十一
じりじり暑い西日が、庭木の隙《すき》や葦簾《よしず》を洩れて、西だけしかあいていない陰鬱《いんうつ》な彼の書斎の畳に這《は》い拡がるなかにいて、庸三はしばらく葉子と離れて暮らしていた。社会面記事から惹《ひ》き起こされた二人の醜悪な心情から、その後もいろいろ傍系的な不快な事件がおこって、ある時などは二人立ちあがって、部屋中押しつ押されつして争ったこともあった。どんな場合にも彼は腕力は嫌《きら》いであったし、剛情とか片意地とかいった、相手を苛立《いらだ》たせるような、女性にありがちな気質上の欠点をもたない葉子のことなので、油紙に火がついたように捲《まく》し立てるとか、あまりにも人を侮辱したような行動に出《い》でない限り立ちあがって争うなぞということは、自発的にはできるはずもなかったが、揉《も》みくしゃにでもしてしまわなければ鬱憤《うっぷん》が晴れないように、ヒステリックに喰《く》ってかかられる場合には、その二つの腕を抑えて、じりじり壁に押しつけるくらいのことは仕方がなかったし、膝相撲《ひざずもう》でも取るように、組んず釈《ほぐ》れつして畳のうえをにじり這うこともやむをえなかった。
それはある時彼女のたっての要請に応じて、一つの誓文を書かされた時であった。と言っても恋の起請《きしょう》誓紙といったような色っぽいものではなくて、今後一切彼女のことに関する限り、作品には書かないという誓いで、もし少しでもそれを書いた場合には、賠償金大枚千円なりを異議なく支払うべきものなりという、子供|瞞《だま》しのような証書であった。
庸三は言わるるままに、それを原稿紙に無造作に書いた。
「これでいいね。」
「どうもありがとう。」
葉子はそれでいくらか安心したように、今まで悲痛な色をうかべていた顔に微笑の影が上って、証書を畳んでハンドバッグの中に仕舞いこんだものだったが、いつ何時《なんどき》どういうことを書かれるか解《わか》らないという不安が全く除かれたわけでもなかった。あの記事以来葉子の目に映るものは二重にも三重にも働き出して来る彼の性格であった。彼は悪党だとは思えないにしても、安心すべき善人でもなかった。こんな盲目的な情熱が、この男にあったのかと驚かれもし、今となってはある場合むしろそれが迷惑でもあり、彼女の身のうえの思い設けぬ不幸でさえもあると思わるるほど溺愛《できあい》している恋慕の底に、何かしらいつも遊戯とかまたは冷たい批判とかいうものとは異《ちが》った作家気質というようなもので、押し隠されていることを、彼女は感じ出していた。庸三は恋愛にかけては、まるで何のトリックも理性もない凡夫にすぎないのであったが、一度ならず二度ならず手許《てもと》へ引き寄せてみようとする執拗《しつよう》さには、かかる体験の副産物をも計算に入れていないわけではなかった。現実にいつも美しい薄もののベイルをかけて見ている葉子の目には、自身の幻影が、いつも反射的に、自身に対するあらゆる異性の目が、憧憬《しょうけい》と讃美に燃えているように見えた。今まで窮屈な家庭に閉じこもって、丸髷《まるまげ》姿の旧《ふる》い型の一人の女性しか知らず、センセイショナルな世間の恋愛事件をも冷やかに看過して来た不幸な一人の老作家を、浮気な悪戯心《いたずらごころ》にせよ打算にせよ、またはいくらかの純情があったにせよ、とにかくその冷たそうにみえる一と皮を※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、281−下−10]《む》しり取って、情熱の火を燃やしたてたということだけでも、葉子は擽《くすぐ》ったい得意をひそかに感じていたのであったが、それがかえって逆作用を呈して自身に仇《あだ》をなす結果となったことは、何としても心外であった。
庸三も証文を取られたことは
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