ステリカルにしゃべり立てながら、隅《すみ》の方に散らかっていた庸三の単足袋《ひとえたび》を取って、腹立ちまぎれに、ぴりっと引き裂いた。
庸三は苛立《いらだ》って来たが、葉子にしゃべりたてられると、それに刃向かう手のないことも解《わか》っていた。抱擁は抱擁、二人の立場は立場と、はっきりした使いわけの器用さも、彼にはなかった。
やがて葉子は身支度して部屋を出たが、旅館の手前もあるので、少し間をおいてから、彼もそこを出た。葉子が黒須に追い縋《すが》って、この破綻《はたん》を縫い合わせに行ったことを想像しながら。
ある日庸三は、小夜子の家の、水に臨んだ部屋の一つで、ある大新聞の社会面記者と会談していた。
最近の葉子の事件について、記者の葉村氏はその前にも会見を申し込んで来たのであったが、迂濶な口を利いて、彼女の結婚に支障を来たすようなことがあってはと、遠のいていれば、そんなことも思われて、わざと断わったのであった。葉村氏の庸三と葉子に対する態度はいつも真面目《まじめ》で自然であった。興味的に掘じくるとか、揶揄的《やゆてき》に皮肉《ひに》くるとかいう種類ではなかった。その日も一応電話をかけて、庸三の意嚮《いこう》を確かめてからやって来たのであった。
「もし先生がお差支《さしつか》えないようでしたら。」
「そうですね。今ならお話ししてもいいかと思うんですけど。」
葉村氏の姿を玄関口に見ると、帳場で小夜子と話していた庸三は、立ち上がって自身案内した。モダアンな葉村氏の質問はデリケートであったが、古い感覚の庸三は、大人《おとな》ぶった子供っぽいものでしかなかった。
「どうでしょう、今度の事件は巧く行くでしょうか。先生のお見透《みとお》しは?」
「そうですね。僕にもわからないんですが、巧く行くようにと思っています。今度は本物かも知れませんよ。」
「そうですか。僕は葉子さんが、あの断髪にした時に、あの人の心の動きというか、機微というか、何かそういうものを感じましたよ。」
そんな話がしばらく続いた。
「お書きになるんだったら、この話が巧く進行するように書いて下さい。葉子は世間が言うほど悪い女でもないんですよ。もちろん打算もあるし、野心的なところもありますが、大体が最初の結婚の出発点が悪いんで、あんなふうに運命が狂って来ているんです。文学的才能だって、伸ばせば伸びるはずなんですが、夢というか慾望というか、いつもそれに負けてしまうんです。」
「しかし先生のお心持はどうですか。今までじっとあの人を見詰めておいでになって……。」
「いや、見詰めてもいなかったんですが、何か始終求めて止《や》まないものがあるんですね。」
庸三はそう言って、ぽつぽつ本音《ほんね》の憎悪の言葉を口にし初めた。そして最後に、
「これはここだけのお話ですから、どうぞそのつもりで。私一|箇《こ》の批判ですから、書いちゃいけないんです。」
葉村氏はやがて帰って行った。
翌朝十時ごろに帳場へ出て行ってみると、そこに庸太郎がすでに起きていて、葉村氏の勤めている社の朝刊を拡《ひろ》げて読んでいた。小夜子はいつものことで、薄暗い中の間で明々《あかあか》と燈明のとぼっている仏壇の下にぴったりと坐って、数珠《じゅず》を揉《も》みながら一心にお経をあげていた。人生に多くの夢を抱《いだ》いていることは彼女も葉子も同じだったが、長いあいだ職業的に鍛えあげられて来ているだけに、お嬢さん気質のぬけきらない葉子に比べて、心に一筋筋金が入っていた。信心は母に植えつけられた過去への贖罪《しょくざい》でもあったが、その日その日の彼女の自制と希望でもあった。ちょうどそれは毎朝の口を漱《すす》いだり、歯を磨《みが》いたりするのと同じに、それをしないと気持が一日散漫であった。
庸三は昨夜も遅くまで花を引いて、硝子《ガラス》障子の白むころに疲れて寝たのであった。庸太郎も仲間に加わっていた。
「何か出ている?」
庸三はちょっと聞いただけで、新聞を覗《のぞ》く気にもなれなかった。好いにしろ悪いにしろ、その記事が彼と葉子のあいだに、いずれからも超《こ》えがたい一線を引いたはずであった。
「ああ、これあ少し悪いな。」
庸太郎が言うので、彼も少し気になって記事にちょっと目を通してみた。確かにそれは葉村氏の理解に信頼して、庸三の個人的に洩《も》らした微《かす》かな憎悪の言葉が、粉飾《ふんしょく》と誇張に彩《いろど》られたもので、むしろ葉村氏の心持で忖度《そんたく》された庸三の憎悪を、彼に代わって彼女に投げつけているようなものであった。
庸三は若い記者の思いやりを、一応感謝はしたものの、擽《くす》ぐったくもあった。にわかに庸三は憂鬱《ゆううつ》になった。
「これじゃ何だか葉村君の呑込《のみこ》みがよすぎたよう
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