お蔭《かげ》で、そうした才能や美徳も、泥土のように見くびられているが、それには群衆心理の意地の悪さがないとは云《い》えなかった。――今も庸三はそういうふうに葉子を買っていたので、園田との結婚でほんとうに彼女の生活が安定する暁には、彼女もするする世の中へ推し出して行けるのではないかという気もしていた。そうしてそれを望んだ。それだけが世間の嘲罵《ちょうば》の彼の償いだと思っていた。恋愛に陥りさえしなかったら、ある程度彼の力で彼女を生かすこともできたはずだとも思えた。それにどんな場合にも文学に縋《すが》りついて生きて行こうと悶※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、265−下−8]《もが》いている、葉子の気持も哀れであった。

 翌日女中が黒須の名刺を取り次いで来たとき、二人は辛うじて目が醒《さ》めたばかりであった。昨夜二人で広小路あたりを散歩してから、庸三は再び彼女とともに旅館へ帰って来た。そして風呂《ふろ》へ入ってからも、夜の化粧をした葉子と、水菓子を食べたりしているうちに夜が更《ふ》けてしまった。
「どうぞお通しして。」
 そう言って、葉子はあわてて起きあがって、
「ほかに空《あ》いた部屋ありますわね。」
「あいにく一杯でございますけれど……。」
 若い女中が答えた。
 葉子は当惑した。
「じゃあちょっと待っていただいて……。」
 彼女は女中を手伝って、急いで寝道具を取り片づけ、ちょっと鏡台の前へ行って、顔を直してから、廊下へ出て来客を出迎えた。
 朝の九時ごろであった。庸三はまだ全くは眠りから覚《さ》めないような気分で、顔の腫《は》れぼったさと、顔面神経の硬張《こわば》りとを感じながら、とにかく居住いを正して煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。
 脊《せ》の高い背広服の紳士が入って来た。颯爽《さっそう》たる風姿で、どこか、庸三が昔から知っている童話の老大家の面影に似通った印象を受けたが、彼は、自分流にずうずうしく落ちついていた。
 茶盆や水菓子の鉢《はち》などが散らかっていた。それに一人の女中が、のろのろと敷布団《しきぶとん》を廊下へ運び出していたらしいので、何かばつが悪かった。
「こちらが黒須さんですの。」
 葉子の紹介につれて、二人は簡単な挨拶《あいさつ》を取りかわしたが、何か妖気《ようき》の漂っているような部屋を、黒須は落着きのない目で見まわしていたが、相当興奮もしていた。
「いや、実は葉子さん、貴女《あなた》が稲村《いなむら》さんに逢《あ》ってくれというもんだから、わざわざやって来たんですがね。」
 これじゃどんなものだかと言った意味の断片的な言葉を口にしながら、険しい目で庸三を見おろしていた。
「そのつもりで、先生にも来ていただいて、お待ちしておりましたのよ。」
 葉子はそう言って、お茶の支度《したく》をしていたが、黒須の低気圧に気がついていたので、さすがに気後《きおく》れがしていた。
「どういうお話ですか、僕でよかったら伺いたいと思いますが……。」
 庸三も口をきいたが、黒須は腹にすえかねることがあるように、何か威丈高《いたけだか》な態度で、金属のケイスから、両切りを一本ぬいてふかしていた。
「無論結婚の取り決めでしょうと思いますが、それについて何か……。」
「いや、それもありますが、それに先立って、失礼ながら梢さんに果してそれだけの誠意があるか否かが問題なのであって、その見究《みきわ》めがつくまで、私も園田の後見役として、とくと梢さんのお心持なり態度なりを見届けなければならない立場にあるので。」
「そのことでしたら、今後葉子自身が証明するでしょうが、今が葉子の過去を清算するのに絶好の時機じゃないかと思うのです。」
 それならこの為体《ていたらく》は一体どうしたのかとでも言いたそうに、黒須は煙草をふかしながら、二人を見比べていたが、庸三という老年の文学者が、蔭《かげ》で葉子を操《あやつ》っている、何か狡獪《こうかい》な敗徳漢のように思われてならなかった。
「とにかく今日は失礼しましょう。いずれまた機会があったら……。」
 黒須は示唆的な表情を葉子に示して、あたふた座を立って部屋を出た。
 黒須を送り出した葉子は、すぐに部屋へ帰って来たが、興醒《きょうざ》めのした顔でぷりぷりしていた。
「悪かったな。」
 庸三が呟《つぶや》くと、
「だって先生が何も言ってくれないじゃありませんか。」
 葉子の声には突き刺さるような刺《とげ》があった。
「だって先が何も言ってくれないじゃないか。僕として何も言うところはないんだ。」
「先生はいつだってそうなのよ。大切なことといったら何一つ考えてもくれなかったじゃありませんか。先生の落ち目になった社会的信用で、この上私を持って行こうったって、それは無理だわ。」
 葉子はヒ
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