っとそこをぬけてホテルへ引き揚げた。そして庸太郎たちを促して、朝の食事も取らずにそこを立ってしまった。

 庸三はにわかに火が消えたような寂しさを感じた。書斎に独りいる時もそうだったが、小夜子の家で遊んでいる時にも、何か気持の空隙《くうげき》を感じないわけには行かなかった。小夜子同伴で銀座へ出たり、足休みにバアやカフエへ入ったりして、動けば動くほど心の落着きが失われるのだった。心の動揺を抑制する手近な方法は、下凡な彼としては、まずふらつきやすい体を抑制することにあることを、彼はだんだん学んで来たので、厳《きび》しい宗教的な戒律というほどでなくとも、日常生活を何かそういった形式に篏《は》めこめるものなら、そうしたいという気持もありながら、ちょうど少し勤労以外の所得があったところから、二十五年封じこめられていた、貧困な結婚生活の償いをでも取ろうとするかのように、気持は吝々《けちけち》しながら計算はルウズになりがちであった。ぽっと出の女中の手に成った、どうにも我慢のならない晩飯も一つの原因であったが、時のジャアナリズムから見棄《みす》てられた侘《わび》しさも、とかく彼を書斎に落ち着かせようとはしなかった。しかしそうした不安な日常のあいだにも、逗子で起こったこのごろの事件から、うみただれた肉体にメスが当てられ、重苦しい苦悩の下から、燃えのこりの生命が燻《くすぶ》り出したような感じで、今まで余所事《よそごと》のように読みすごして来た外国の作品などに、新らしい興味を覚え、もしも余生がこの先き十年もあるものなら、出直してみたいという欲望も、頭を持ちあげて来た。
 それに庸三は、最近裏の平屋を取り払って、その迹《あと》へ花畑や野菜畑を作ったり、泉水に水蓮《すいれん》や錦魚《きんぎょ》を入れて、藤棚《ふじだな》を架《か》けたりした。碧梧《あおぎり》の陰に、末の娘のために組み立てのぶらんこをも置いた。しかしそうして、女中に手伝わせて、ホースで水を撒《ま》いたり、鍬《くわ》やシャベルを持ち出して、萩《はぎ》や芙蓉《ふよう》の植え替えをしたり、薔薇《ばら》やダリヤの手入れをしていると、老いた孤独の姿がますます侘しく心に反映して来て、縁側へ来て休んでいても、お茶一つくれるものもないのが物足りなかった。
 逗子における葉子の事件は、庸三の近くにいる二三の青年を嫉妬《しっと》半分|憤《おこ》らせたり、寂しがらせたりはしたが、ジャアナリズムと一般の世界ではほっとしたようであった。
 葉子の行動に、前から関心をもっていた、ある若い新聞記者から、ある時電話がかかって来た。その時も庸三は小夜子の家《うち》にいた。小夜子の家でも、川沿いの部屋の窓近くに、幾株かの若い柳を植えたり、玄関先きの植込みのうえに変わった型の電気|燈籠《どうろう》を掲げたりして、座敷はいつも賑《にぎ》やかであった。
 庸三が帳場の卓上の受話機を取ってみると、今度の事件について、何か話が聞きたいというのであった。
「そうですね、僕は二人の結婚がどうかうまく行くようにと思うよりほか、別に何の感想もありませんよ。多少あっても、今は何も言いたくないんですが。」
 それ以上|強《し》いもしなかったが、庸三はそれを機会《きっかけ》に、逗子事件のその後の進展について知りたいような好奇心もいくらか唆《そそ》られた。このうえ葉子を手元へ引き寄せてみようとは思わなかったが、嫉妬まじりの興味がないこともなかった。
 翌日庸三はしきりに洋装をしたがっている小夜子に言われて、布地《きれじ》を見に、一緒にひつじ屋へ行ってみた。小夜子は身分のある婦人の着る、贅沢《ぜいたく》な支那服ももっていたし、クルベーの持ちものとして、ホテルの夜会で踊ったこともあるので、ドレスや不断着ももっていたけれど、もう型が古くなっていた。
「さあね、洋服は止《よ》した方がいいんじゃないかね。支那服ならいいがね。」
「異《ちが》った意味で、あの人もそう言ったのよ。日本の女が何も身についた和服を棄《す》てて、洋服を着る必要ないって。でも着てみたいのよ。」
 小夜子は多くの文壇人や画家や記者を知るようになってから、今まで附き合っていた株屋とか、問屋《とんや》の旦那《だんな》とかいった種類の男が、俗っぽいものに見え、花柳趣味の愛好者である彼らを飽き足りなく思っていた。出入りの芸者は仕方がないとしても、型にはまった一般の待合の女将《おかみ》や女中などとも反《そ》りが合わなかった。彼らの目から見れば、小夜子は毛色のかわった異端者であった。
 ひつじ屋で、花模様のジョウゼットを買ってから、四谷《よつや》に洋装学校をもっているあるマダムの邸宅を訪問した。庸三はこのマダムを、ある婦人雑誌社の手芸品展覧会で知ってから、一度その家を訪問して、それから一緒に小夜子の家へ
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