もやつ》れがしていたが、裏が廊下になっている、ちょうど縁側と反対の壁ぎわに延べられた寝床の枕元《まくらもと》近くのところで、庸三を警戒するもののように離れて坐っていた。
「どうしたんだ。」
「いずれある時機に御相談しようとは思っていたことなんですけれど。」
「それで……。」
「先生にいつかお話ししましたかしら、メイ・ハルミのこと。」
「いや聞かない。」
「そうお。じゃあこれはごく内証《ないしょ》よ。お書きになったり何かしちゃ駄目よ。あの人たちの名誉に係《かか》ることですから。」
「話してごらん、大丈夫だから。」
「ハルミさん一昨年の夏とかに、避暑かたがた軽井沢へ美容院の出張店を出していたのよ。そこへおばさんおばさんと言っちゃ、懐《なつ》いて来る一人の慶応ボオイがあったんですって。するとあの人も、商売がああいうふうに発展すれば発展したで、無論やり手の旦那《だんな》さまのリイドの仕方も巧いんでしょうけれど、それだけにまた内部に苦しいこともあるものらしいので、ついその青年に殉ずる気持になって、結婚しようと思ったんですって、それでそのことを旦那さまに打ち明けて、今までの夫婦生活を清算してから、一緒になろうとしたものなの。」
 そんな話になると、彼女には彼女特有の表現の魅力もあって、切迫した庸三の今夜の気持にも、何かしら甘い寛《くつろ》ぎを与え、かつて彼女の口を通して聴《き》いた外国の恋愛小説ほどの興味は望めなかったが、現実の問題にも何か関《かかわ》りがありそうなので、聴くのに退屈はしなかった。
 葉子の話では、その青年との結婚を、ハルミのマスタアも一応は承諾したのだったが、そのことはハルミの生涯にとっても重要な分岐点だから、慎重に考慮する必要もあるし、よしそれが決定的なことだとしても、マスタアの立場として、一応|田舎《いなか》のハルミの叔父《おじ》の諒解《りょうかい》をも得なければならないことだというので、その青年を加えて、間もなく三人でハルミの郷里を訪れ、ハルミの叔父や姉婿《あねむこ》などにも立ち会ってもらって、マスタアとの結婚解消と青年との結婚とについて、協議を遂げることになったが、誰もこの新らしい恋愛結婚に賛成するものはなかった。その時マスタアは厳粛な態度で青年に詰問してみた。君たちが本当の熱情から愛し合っているのが事実なら、ハルミは今でも譲っていいが、責任をもってハルミを引き受けるだけの自信が、果して君にあるかどうか、この場で十分我々を納得させるだけの返辞を聴かしてくれたまえ――。とそう言われると青年はにわかに怯《ひる》んで、すみませんと言ったきり、首を俛《た》れてしまった。そしてその瞬間、男性的なマスタアへのハルミの信頼が強められた。
「何の話かと思ったらそんなことか。」
 庸三は擽《くすぐ》ったい感じだった。
「夜があけたらあの人をここへ呼びますから、先生から聴いていただきたいと思うんですけれど……。」
「そんな芝居じみたことは僕にはできない。」
 庸三は答えた。それが苦し紛れの葉子の口実なのか、それとも相手の態度がはっきりしないので、今夜来たのを幸いに、庸三に立ち会ってもらいたいのが本心か、そのいずれだかは彼にも解《わか》らなかった。いずれにしても、青年の家柄、父親の社会的地位などから考えて、とかく誠意を欠いた葉子との結婚が、すらすら運ぶものとは思えなかったし、運んだところで長続きがするか否かも疑問であった。葉子も自身の弱点は相当計算に入れているはずでもあった。
「いけません?」
「僕はそんな厭味《いやみ》なことは嫌《きら》いだ。」
 年齢はとにかく、園田の人格に対しても、そうしたお干渉《せっかい》は無駄だと思った。
 するうちに時計が二時をうった。庸三は頭の心《しん》が疲れて来た。目の始終|潤《うる》みがちな葉子も疲れて来た。
「もう遅いから少しお寝《やす》みになって……。」
 庸三は肱《ひじ》を枕《まくら》にして横になったが、葉子も蒲団《ふとん》のうえに寝そべった。
「あの人体が大きいのよ。そのくせ※[#「※」は「八」のしたに「儿」+「王」、第4水準2−8−14、258−下−3]弱《ひよわ》いらしいの。胸の病気もあるようなのよ。氷で冷やしたり何かしていたのよ。」
 葉子は哀《かな》しげに言った。
 ぼそぼそ話しているうちに、いつか障子が白んで来た。
「もう一時間もしたら、あの人のところへ使いをやりますから、一度|逢《あ》って下さらない。お願いしますわ。」
「あの男から何か話させようとでも言うのか。」
 庸三はそうも思ったが、やがて葉子は車の丁場《ちょうば》で、園田のところへ使いを頼むつもりで、出て行ったあとで、庸三はあらゆる理由を抜きにしても、この場合葉子の恋愛の相手としての子供の友達に顔を合わせたくなかったので、そ
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