ある秀才のマルクシストの邸宅のあることも解っていた。葉子の家がそれらの青年たちにとって、気のおけない怡《たの》しいサルンとなることも考えられないことではなかった。ぼろぼろになった恋愛を、今さらそんな処《ところ》まで持ち廻るのも恥ずかしいことだったし、子供たちから遠く離れているのも不安だった。
 葉子は借りた家の間取りや、玄関の見附き庭の構図などについて、嬉《うれ》しそうに説明していた。
「それが五十円なの。安いじゃないこと。」
 そんな家を借りて、どうするのだろうと、小心な庸三は心配になった。連載ものを書いている間はいいとしても、それがいつまで続くものでもなかった。もちろん彼女はいつも贅沢《ぜいたく》をするとも決まってないので、本当に頭脳《あたま》の好い主婦だという感じのする場合もあったが、世帯《しょたい》は世帯として、とかく金のかかるように出来ていた。メイ・牛山あたりで買って来る化粧品だって、相当のものであった。たまにはいくら庸三が補助するにしても、いつかは破綻《はたん》が来るに決まっていた。
 しかし葉子は、今までの生活を清算して、そこで真剣にみっちり勉強するつもりであった。瑠美子を人にあずけておいても気がかりなので、それも手元に置きたかった。移るについて、母親からいくらか金を送ってもらっていた。母はまだまだ葉子を見棄《みす》ててはいなかった。
 庸三は折鞄《おりかばん》をさげて、ぶらりと家を出た。そしてタキシイで東京駅へ乗りつけたが、海岸の駅へ着いたころには、永くなった晩春の日もすでに暮れかけていた。
 タキシイで通る海岸の町は閑寂《ひっそり》したもので、日暮れの風もしっとりと侘《わび》しかった。庸三は何かしら悪い予感もあったが、しばしばのゴシップに怖《お》じ気《け》もついていたので、とかく落ち着けない気分だった。葉子は珍らしく、家へ帰るとすぐ鱗型《うろこがた》の銘仙《めいせん》の不断着に着かえ、髪も乱れたままで、ホテルの傍《そば》にある肴屋《さかなや》や、少し離れたところにある八百屋《やおや》へ、女中のお八重をつれて買い出しに行ったりして、晩飯の支度《したく》に働いた。尻端折《しりっぱしょ》りで風呂《ふろ》へ水を汲《く》みこみもした。
「こんな新しい海老《えび》よ、烏賊《いか》のお刺身も頼んで来たのよ。」
 葉子は肴屋から届いた海老を、庸三の前へ持って来て見せた。
「ほんとうにやる気かしら?」
 庸三はそんな気もしたが、郊外の町のホテルに彼を置き去りにした時の、何かに憑《つ》かれたような気分はどこにも見られなかった。花火線香のような情火が、いつまたどんな弾《はず》みで燃えあがるまいものでもなかったし、新らしい生活に一時飛びつくような刺戟《しげき》を感じはしても、じきに飽きの来ることも解っていないことはなかったが、それはその時にならなければ、やはり解らないことであった。それに庸三は、生活の責任を回避しながら――それには現実に即しえられない彼女の本質的な欠陥があるという理由があるにしても――彼女の愛を偸《ぬす》もうとする利己心を、性格のどこかに我知らず包蔵していた。もっと悪いことには、自身の生活にある程度|創《きず》がついても、知るだけのことは知りたいと思った。無論それも頭のうえの口実で彼の気持はもっと盲目的に動いていることも、争えなかった。葉子を通して、彼は微《かす》かな触れ合いで済んで来た、過去の幾人かの女性にも目が開いて来た。
 二方庭に囲まれた奥の八畳で、何か取留めのない晩餐《ばんさん》がすんで、水菓子を食べながら、紅茶を飲んでいる間に、風呂《ふろ》も湧《わ》いて来て、庸三は八重子に背中を流してもらいながら湯に浸った。
 やがて瑠美子が寝てしまうと、環境もひっそりしてしまって、浪《なみ》の音が聞こえて来た。
「海へ出てみません?」
 葉子が誘うので、ステッキをもって門を出た。ホテルの入口がすぐそこにあった。
「もしラジオをお聴《き》きになりたかったら、ホテルで聴かれますのよ。」
 葉子はそう言って、ホテルの裏の小路をぬけて浜へおりて行ったが、このホテルの内容や、マスタア夫妻の生活や人柄についても、すでに感じの細かい知識をもっていた。
 海は暗かった。堆高《うずたか》い沖の方が辛うじて空明りを反映させていた。それに海風も薄ら寒かった。葉子は口笛を吹きながら、のそりのそりと砂浜を歩いていたが、ふと振り返ると、マッチをつけかねていた庸三に寄り添って、袖《そで》で風を遮《さえ》ぎった。
「楽しくはない?」
「そうね。」
 葉子は夢の中を歩いているような、ふわふわとどこまでも渚《なぎさ》を彷徨《さまよ》っていたが、夜の海の憂愁《ゆうしゅう》にも似た思いに沈みがちな彼女とは、全く別の世界に住んでいるような、相手が相手なので、何
前へ 次へ
全109ページ中64ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング