らって、躯を診《み》てもらった。ドクトルは彼のこのごろの生活をよく知っていたが、ずっと第二号と暮らしていたので、いつもよりシリアスな態度で聴診器を執ってくれた。
「まあ神経衰弱でしょうね。よく眠れるように薬を加減して差しあげましょう。」
「どうもこういう生活が怖《こわ》いんですが、いけないんでしょうな。」
「それかと言って、この部屋も独りじゃ随分寂しいですからね。」
 ドクトルが帰ってから、彼は夕方まで眠った。

 四月の末になって、葉子は逗子《ずし》の海岸へ移ることになった。
 そのころにはK――博士《はかせ》との関係も、すでに公然の秘密のようなもので、双方の気分の和《なご》やかな折々には、葉子も笑いながら、興味的なその秘密をちらちら洩《も》らすのであった。
「ああいう人たちの生活は、本当に単純で罪のないものなのよ。私たちの生活がどんなにか花やかで面白いものだろうかと思っているの。あの人は職業上の関係で、下谷《したや》のある芸者を知っていたの。私と同じ痔《じ》の療治で入院していて、退院してからちょいちょい呼んでやったことがあったものよ。その人の面差《おもざ》しが私によく肖《に》ているというのよ。」
「ふむ。君との関係は、いつから?」
 庸三はきいて見た。
「ううん、それももっと後になったら、詳しく話すけれど……。あの人の位置を摺《す》り換えさえすれば、書いてもいいわよ。いろいろ面白いこと教えてあげるから。でも、先生怒るから。」
 庸三は苦笑した。
「初めは……どこへ行った?」
「夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。」
「退院してからね。」
「そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。」
 そうしたシインも容易に彼に想像できるのであった。
「面白い手紙もあるわよ。人格者らしく真面目《まじめ》で、子供のように単純なのよ。」
「見せてごらん。」
「それももっと後に。」
 しかし庸三は良心的に、あの博士のそうした秘密などにあまり触りたくはなかった。知れば知るほど自分の下劣さを掘り返すにすぎなかった。
「金があるのかしら。」
 ちょっとそれにも触れてみた。
 葉子はその収入を大掴《おおづか》みに計算しはじめたが、財産がどのくらいのものかは解《わか》りようもなかった。もちろん二人で遊ぶ時の費用は、大体葉子が払っているものと見てよかったから、彼女に打算のありそうもなかった。それが多少あったにしても、純真な博士の前では問題にもならないはずであった。結果からみれば博士が少し上手《うわて》だということになりそうだった。
 葉子は患者として、博士の邸宅をも訪れたことがあるらしく、生活の程度を大体それで推測していた。
「けれどK――さんそう言ってたわ。先生はいい人だから大事になさいって。私が逗子へ行くのも、この事件を清算するのにいいからなのよ。」
 庸三は黙って聴《き》いていたが、遠いところに離れていれば、博士に遭《あ》う機会が自由に作れるのだという気もした。博士の方から手を引こうとしていることは解るが、葉子のあれほどの熱情が、水をかけた火のように消えるものかどうか、疑わしかった。
「私K――さんにお礼しようと思うけれど、何がいい?」
 そんな関係にまで進んでいてそれにも及ばないという気がしたが、そうするといよいよ清算かなとも考えた。
「およそどのくらいのものさ。」
「あまり吝《けち》なこともできないでしょう。葉捲《はまき》どう?」
「よかろう。」
「三十円くらいで、相当なものある?」
「僕は知らんけど……。」
 葉子が逗子へ家《うち》を捜しに行ったのは、それから二三日してからであったが、そのころには奉書二枚に包んで水引をかけた葉捲の函《はこ》も買い入れて、庸三の部屋へ来て見せたりしていた。
 ちょうどそれと同時に、下宿の部屋の窓先きに、丸い鳥籠《とりかご》がかかっていて、静かな朝などに愛らしいカナリアの啼《な》き声が、彼の部屋へも聞こえて来たが、それが葉子の引越しを祝って、彼女の弟が餞別《せんべつ》にくれたものだというのは嘘《うそ》で、実はK――博士の贈りものであったことを、迂濶《うかつ》な庸三も大分後になってやっと感づいて、それでともかくこのロオマンスに大詰が来たことも呑《の》みこめた。

 庸三が葉子につれられて、初めて逗子へ行っていたのは、引き移ってから四五日してからであった。
 庸三は実は行くのも物憂《ものう》いような気がしていたが、その家へぜひ来て見てもらいたいような様子なので、つい行く気になった。これからの季節には、あの辺の海岸も盛《さか》るころで、あのホテルに若い人たちも集まるはずであった。前から家をかりている若い流行作家のあることも知っていたし、長男の同窓でブルジョアの一人|息子《むすこ》で
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