か棄《す》て台詞《ぜりふ》めいた言葉を遺《のこ》して出て行った。庸三は二度とホテルへは帰って来るな、といった意味の言葉を送ったが、彼女は彼女で家《うち》の一軒も建ててくれるだけの親切でもあるならと、差し当たっての彼女の要求をそれとなく匂わした。
 独りになってみると、部屋がにわかに広々してみえ、陰鬱《いんうつ》に混濁した空気が明るくなったように見えた。気もつかないうちに、春はすでに締め切った硝子窓《ガラスまど》のうちへもおとずれて来て、何かぼかんとした明りが差していた。いつか散歩のついでに町の花屋で買って来たサイネリヤが、雑誌や手紙や原稿紙の散らばった卓子《テイブル》の隅《すみ》に、侘《わび》しく萎《しお》れかかっていた。
 じきに夜になった。庸三は外へ出る興味もなく、風呂《ふろ》へ入ってから、照明のほのぼのした食堂へ入って行った。洋楽のレコオドがかかっていて、外人が四五人そっちこっちのテイブルに散らばっていた。
 アメリカ帰りのマスタアが、ここにこのホテルを建てた当初から現在に至るまで、およそ十年余りのあいだ、ここに滞在している仏蘭西人《フランスじん》の異《かわ》ったプロフェッサが一人いることは、いつか初めて葉子をつれて、日本座敷に泊まっていた時、マネイジャ格の老ボオイから聞いた話だったが、庸三はそれがどんな男か、それらしい老紳士の姿を、廊下でもサルンでも一度も見たことはなかった。彼は部屋を決める時、半永久的に床を自分の趣味で張りかえ、壁紙や窓帷《カアテン》も取りかえて、建築の基本的なものに触れない程度で、住み心地《ごこち》の好いように造作を造りかえた。
 生活もすこぶる厳格なもので、夜分に外出するということもほとんどなく、外で食事をするようなこともめったに聞かなかった。学校が休みになると彼は毎年行くことにしている、長崎《ながさき》のお寺で一夏を過ごすのも長年の習慣であった。彼は庸三と大抵同じくらいの年輩らしかった。
 庸三は葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯ついでもらって、侘《わび》しそうにちびちび口にしながら、ほんの輪廓《りんかく》の一部しか解《わか》っていないその外人の生活を、何かと煩累《はんるい》の多い自身に引き較《くら》べて思いやっていた。さりとて信仰なしに宗教の規範や形式に自身を鋳込《いこ》むのも空々しかったし、何か学術の研究に没頭するというのも、柄にないことであった。彼は長いあいだの家庭生活にも倦《う》みきっていたし、この惨《みじ》めな恋愛にも疲れはてていた。心と躯《からだ》の憩《いこ》いをどこかの山林に取りたいとはいつも思うことだが、そんな生活も現代ではすでに相当|贅沢《ぜいたく》なものであった。
 一盞《いっさん》の葡萄酒が、圧《お》し潰《つぶ》された彼の霊ををとろとろした酔いに誘って、がじがじした頭に仄《ほの》かな火をつけてくれた。そして食事をすまして、サルンのストオブの側に椅子《いす》を取って煙草《たばこ》をふかしていると、幾日かの疲れが出たせいか、心地《ここち》よく眠気が差して来た。
 やがて彼は部屋へ帰って、着物のままベッドに入った。この場合広いベッドに自由に手足を伸ばして、体を休めることが、彼にとって何よりの安息であった。
 庸三は葉子が帰って来るようにも思えたし、帰って来ないような気もして、初めはむしろ帰って来ない方がせいせいするような感じだったが、うとうと一と寝入りしてから、およそ一時間半も眠ったろうか、隣室の客が帰って来た気勢《けはい》に、ふと目がさめると、その時はもう煖炉《だんろ》を境とした一方の隣りにあるサルンにも人声が絶えて、ホテルはしんと静まりかえっていたので、事務室の大時計のセコンドを刻む音や、どこかの部屋のドアの音などが、一々耳につきはじめて、ふっと入口のドアの叩《たた》く音などが聞こえると、それが葉子であるかのように神経が覚《さ》めるのだった。
 何時ごろであったろうか、病人のように慵《ものう》い神経が、ふと電話のベルに飛びあがった。りんりんと続けさまに鳴ったが、ボオイたちもすっかり寝込んでいると見えて、誰も出て行くものがなかった。宿泊人はいずれも朝の勤めの早いサラリーマンなので、こんな遅くに電話のかかって来るはずもなかった。庸三は多分葉子だろうという気がして、よほどベッドを降りようかと思ったが、意識がぼんやりしていたので、それも億劫《おっくう》であった。するうち彼はまたうとうとと眠ってしまった。
 翌日庸三はそこを引き揚げて、しばらくぶりで書斎へ帰って来た。からりと悪夢からさめたような感じでもあったが、頭脳のそこにこびり着いた滓《かす》は容易に取れなかった。そして机の前に坐っていると、不眠つづきの躯のひどく困憊《こんぱい》していることも解った。彼は近所の渡瀬《わたせ》ドクトルに来ても
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