か飽き足りなそうであった。しかし葉子は再び彼によって、今少し確かな足を踏み出そうとはしているのだった。

      十六

 この平凡な内海に避暑客が来るにはまだ間があった。砂|悪戯《いたずら》や水|弄《いじ》りをしたり、または海草とか小蟹《こがに》とか雲丹《うに》などを猟《あさ》ってあるく子供や女たちの姿は、ようやく夏めいて来ようとしている渚に、日に日に殖《ふ》えて来て、気の早い河童《かっぱ》どもの泳いでいるのも初夏の太陽にきらきらする波間に見られた。葉子も瑠美子と女中をつれて、潮の退《ひ》いた岩を伝いながらせせらぎを泳いでいる小魚を追ったり栗《くり》の毬《いが》のような貝を取ったりした。彼女はその毬のなかから生雲丹を掘じくり出すことも知っていた。庸三もステッキを突きながら所在なさに岩を伝って、葉子たちの姿の見えないような遠いところまで出て行って、岩鼻に蹲居《しゃが》んで爽《さわ》やかな微風に頸元《くびもと》を吹かれながら、持前のヒポコンデリアに似た、何か理由のわからない白日の憂愁に囚《とら》われていた。そうやっているうちにも彼は一刻も生活を楽しんでいる気にはなれなかった。一方早く自身の生活に立ち還《かえ》らなければならないという焦燥《しょうそう》に駆られながらも、危ない断崕《だんがい》に追い詰められているような現実からどう転身していいかに迷っていた。彼は飛んでもない舞台へ、いつとなし登場して来たことを慚《は》じながらも、手際《てぎわ》のいい引込みも素直にはできかねるというふうだった。浪子《なみこ》不動がすぐその辺にあった。庸三は名所|旧蹟《きゅうせき》という名のついたところは、一切振り向くのが嫌《きら》いだったが、時には葉子とそこまで登って行ったこともあった。ホテルへ来て物を書いている人気作家のK――氏と一緒のこともあって、K――氏とは撮影所へつれて行ってもらったりしていたし、人の羨《うらや》む新婚生活も、そのころはすっかり前途の幸福も保障され、そこからまた新らしい人気も湧《わ》いていたので、葉子もついに三人一緒に歩きながら、何かK――氏に訴えてみたいような気持を口にしがちであった。
「今のままで結構じゃありませんか。」
 K――氏は言っていたものだが、そういう後では、葉子の気持にも何か動揺があった。彼女は博士《はかせ》事件以来、ここへ引っ越して来てから、自身の不乱次《ふしだら》を深く後悔しているように見えた。少なくとも今しばらく庸三との最初の軌道へ立ち戻っているよりほかないものと、虫を抑えているらしかったが、しかし考えようによっては清算しきれないものが残っているかも知れなかった。博士との関係をずっと持ち続けるには、かえって遠ざかっている方が、とかく名誉に傷つきやすい博士のために有利だと考え、擬装のためわざと庸三を利用しているように思われないこともなかった。そのころまだ博士の贈りものだとも気づかなかったので、捲毛《まきげ》のカナリヤの籠《かご》の側で、庸三はよく籐椅子《とういす》に腰かけながら、あまり好きでないこの小禽《ことり》の動作を見守っていたものだが、いくらかの潜在的な予感もあったので、葉子のこの小禽に対する感情をそれとなく探るような気持もあった。彼は少年のころ小鳥を飼った経験があるが、枝にいる時ほど籠の小鳥は好きではなかった。この繊細なカナリヤも飼い馴《な》れない葉子の手で、やがて死ぬだろうと思うと、好い気持がしなかった。
 やがて梅雨期にでも入ったのか、この海岸の空気も毎日|陰鬱《いんうつ》であった。葉子はある日のお昼過ぎ、婦人雑誌社を訪問する用事があって、一人で東京へ行った。庸三もそう続けてそこにいたわけでもなかった。葉子と生活をともにしていることも、決して楽ではなかった。自身の家庭に居馴らすことができてこそ、女も彼の日常の伴侶《はんりょ》であり、朝夕の話相手でありうるのだったが、彼の生活に溶けこむこともできない生活条件の下では、かえって重荷を、あんな事件もあった後で、もうこの辺で卸してしまいたい気もしていた。若い彼女の生活に附き合って体や頭を痛めながら調子を合わしていることは、何と言っても苦痛であった。生活の負担も考えないわけに行かなかった。
 東京へ帰ると、彼はまた大川端《おおかわばた》の家へ行って、風呂《ふろ》に入ったり食事をしたりして、やっと解放されたような気分になれるのであった。
 入れかわりに長男に連れられて、子供たちが逗子へ行ったりしたが、そのころには博士との関係についての彼の疑いも、いつか微《かす》かな影のようなものになっていた。
 二度三度行くうちに、何か疎《うと》ましい感じだった逗子の町や葉山の海岸にも、いつとはなし淡い懐かしみも出来て、この一と夏を子供と一緒にここで過ごすのも悪くないとい
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