い人たちから何かを得ようと、神経を尖《とが》らせていた。去年の秋もたけなわなころ、まだ手術を思い立たない前の彼女をつれて、箱根までドライブしたことがあった。夜も大分遅くなって、痔《じ》に悩んでいた彼女はクションの上に半身を横たえてぐったりしていたが、九時ごろに宮の下のある旅館の前へ自動車を着けさせてみると、酒に酔った学生たちが多勢《おおぜい》、上がり口に溢《あふ》れていてわあわあ言っていたので、庸三はにわかに怖《お》じ気《け》づいて、いきなりステップを降りかけようとしてまたクションに納まろうとした。そして運転士に方向を指そうとした途端に、四五人の学生はすでに車の周《まわ》りを取りまいてしまった。
「××博士もいられます。あなたに遭《あ》いたいそうですから。」
押問答をしているうちに、一人の青年がそう言って庸三を勧説《かんぜい》した。彼は頑固《がんこ》に振り切るのも潔《いさぎよ》くないと思ったので、彼らの好意に委《まか》せることにした。彼らは不意に目の前に現われた二人を弥次《やじ》っていなかった。むしろその反対に「こんな恋愛を攻撃するのは封建思想ですよ。大いにおやんなさい」と言って、玄関へ上がって行った葉子を取りまいて、万歳を叫びながら胴あげしていた。庸三はきまりが悪くなって、その隙《すき》にするするとそこをぬけて、番頭の案内で、二階の一室に納まったが、やがて部屋へ入って来た葉子の疲れた顔にも、興奮の色があった。
「困ったな。悪いところへ来てしまった。」
「あの人たちみんないい感じよ。帝大の人たちだわ。」
臆面《おくめん》のない葉子のことなので、それを好いことにしていた。
二人は一と風呂《ふろ》入ってから、食事を初めた。そこへ十人ばかりの学生が、前よりも真面目《まじめ》な態度で、文学論を闘《たたか》わしに来たが、葉子はそれを一手に引き受けて、にやにや笑っている庸三をそっち退《の》けに、綺麗《きれい》な手にまで表情をして、薄い唇《くちびる》にべらべらと止め度もなく弁じ立てたものだったが、その時に限らず、青年たちの訪問する時、彼らの愉快な談話に対するのはいつでも葉子で、庸三は聴《き》かぬでもなしに口数を利かなかった。どうかすると庸三の思いも及ばない美しい詩が、出任せな彼女の口から閃《ひら》めいたが、庸三にとってはそれが花か月のような女性の世界の神秘のような匂いもするのだった。
ある晩も二人は行きつけの小料理屋の一室で、食事をしていた。庸三はどこへ行っても、床の間の掛軸や花瓶《かびん》などに目をつける習慣になっていて、花の生け方などで料理がひどく乱暴なものか否かを大体|卜《ぼく》するのであったが、今そこに蕪村《ぶそん》と署名された南画風の古い軸がかかっていたので、それが偽物だということは、絵柄と場所柄でわかるにしても、ひょっとすると掘出し物ではないかという好奇心も手伝って、無下に棄《す》てたものでもなさそうなその絵を幾度となく眺め返していた。彼は逃げようとして絶えず隙を覗《うかが》ってでもいるような、何かぴったりとしない葉子の気分に、淡い懊悩《おうのう》と腹立たしさを感じながら、それを追窮する勇気もなく、それかと言って器用に身を交《かわ》すだけの術《すべ》もなく、信じないながらにわざと信じているようなふうをして、苦悩の泥濘《でいねい》に足を取られていた。それというのも、そういう場合の彼女の媚態《びたい》が、常よりも一層神経的でもあり煽情的《せんじょうてき》でもあって、嫉妬と混ざり合った憎悪と愛着の念が、彼を一種の不健康な慾情に駆り立てたからで、お互いに肉情的な泥《どろ》仕合いに爛《ただ》れているのであった。
その夜も庸三は少し不機嫌《ふきげん》になっていたが、どうかした拍子に、
「先生私をあまり重荷にお思いでしたら……。」
と葉子はふとそう言って、寂しそうな表情をしていた。
庸三は何か別のことを考えていたので、その言葉をはっきり聴《き》き取ることもできず、その意味を問い返すだけの意識もなくて、押し黙っていたが、彼女の背後にあるものの影が、仄《ほの》かにぼかされていた。
サルンに人のいない時、葉子は時々読んでいる本を伏せて庸三の傍《そば》を離れた。庸三は高すぎるくらいの卓子《テイブル》に向かって、廻転椅子《かいてんいす》にかけながらペンを執っているのだが、姿の見えぬ彼女の一挙一動を感知しようとするもののように、耳を澄ましていた。かつて彼女は、庸三の家へ入りたてのころに、独りで帝国劇場へ女優劇か何かを見に行ったことがあった。その時多分彼女のどうかした表情が、その結果を生んだものであろうが、隣に座席を取っていた米国人らしい若い一人の紳士が、覚束《おぼつか》ない日本語で彼女に話しかけた。双方の言葉が通じるというわけには行かなか
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