ったが、同伴者があるかどうかくらいのことは解《わか》った。葉子はかねがね白色外人に興味をもっていたけれど、不良外人の多いことをも知っていたので、そんな観衆のなかで煩《うるさ》く話しかけられるのがいやだった。彼女は座席を離れて廊下へ出た。そして売場の前を通ってバルコニイへ出て、濠端《ほりばた》の夜景を見ていた。五月のころでもあったろうか、街路樹の葉はすでに蒼黒《あおぐろ》く繁《しげ》っていて、軽い雨がふっていた。それは外人から逃げるためか、それとも誘い出すためだったか、彼女の話だけでは本当のことは解る由もなかったが、多少の好奇心に駆られていたものと思っても、間違いではなかった。ずっと後にある独逸《ドイツ》の青年学徒と、しばらく係り合っていたという噂《うわさ》と照らし合わせてみても、すべてのモダアンな若い女性の例に洩《も》れず、そうした外人にある憧憬《しょうけい》をもっていたものと見てもよかった。――とにかくバルコニイに立っている葉子は、何か訳のわからない恐怖に似た胸の戦《わなな》きをもって、近づく廊下の靴音に耳を澄ましていたに違いなかった。果して青年は近づいて来た。そしてたどたどしい日本語で今下へおりて自動車を呼ぶから、一緒にドライヴしようと申し出た。無論相手がどんな種類の人間だかも解らなかったし、感違いの侮辱も感じたので、葉子は手まねで拒絶したが青年は肯《き》かなかった。そして押問答しているうちに、案内女や通りすがりの観客の足がそこに止まったところで、葉子は先刻ちょっと廊下で偶然に会って立話をした草葉の知合いの、婦人運動などやっているO――女史に頼んで来てもらって、やっと自身の身分を知らせることができた。O――女史は彼女が有名な女流作家であることを、わざと宣言したのであった。
 その後葉子は、銀座の曾根《そね》のスタジオへ撮影に行った帰りに、飾り窓の前に立っていると、またしてもその青年外人が傍に立って、にやにやしているのに気づいたが、その時は目と目と笑《え》み合っただけで、二三町それとなく迹《あと》をつけられた感じだったが、何のこともなかった。そのころの葉子には、まだ娘気の可憐《しおら》しさや、文学少女らしい矜《ほこ》りもあった。
 庸三は今外人のホテルに葉子と二人いて、そんなことも思い出さないわけに行かなかった。ここにいる若い外人は大抵官省や会社に勤めている技師のようであったが、中には着いたばかりで、借家を捜すあいだの仮りの宿として、幾箇《いくつ》かのトランクを持ち込んで来る新婚の夫婦もあった。庸三が一日に何度となく、跫音《あしおと》を偸《ぬす》むようにして、廊下へ出て行く葉子の動静に気を配ることを怠らなかったのも、一つはそのためでもあった。
 ある時はまた、そっと玄関に近い事務室の傍にある電話口へ出て行って、どこかへそっと電話をかけているのではないかという彼女の気配が、微《かす》かに感じられるような気がしたりしたが、夜はいつまでもラジオを聴《き》いていることもあった。
 来客などのあった時とか、または少し離れたところに、名高い女流作家と異《かわ》った愛の巣を造っている若い作家を訪れたりした時には、庸三はホテルの人たちが寝静まったころに、やっと原稿紙に向かうことができた。彼はしばしばサロンの外人たちの間に交じって、彼女と一緒にお茶やケイキを食べたが、彼自身も今少し度胸があったら、何か話したそうにも見えるそれらの人たちと言葉を交したい方であった。
 するとある夜葉子は、いつもの神経的な発熱でベッドに横たわりながら、本を読んでいたが、うとうとしていたかと思うと、ヒステリカルに彼を呼んで白い手を伸ばした。昼間葉子は庸三の勧めで幌車《ほろぐるま》に乗って町の医院を訪れ、薬を貰《もら》って来たのであったが、医者は文学にも知識をもっているヒュモラスな博士《はかせ》で、葉子の躰《からだ》をざっと診察すると、もうすっかり馴染《なじみ》になってしまった。しかしこの場合葉子に利くのはその処方ではなかった。
 庸三も何となしこの生活に疲れていた。新聞一回書くのにも気分が落ち着かなかった。葉子が病気になると一層|憂鬱《ゆううつ》であった。彼は葉子を落ち着かせるために、側へ寄って行くのだったが、彼女はいつも啜《すす》り泣いているような表情で、目も潤《うる》んでいた。
「先生も可哀《かわい》そうな人ね。」
 葉子はそう言って、彼の手を取ったが、この重苦しい愛着の圧迫に苦しんでいる、それは彼女の呻吟《しんぎん》の声でしかなかった。
「お察しの悪いったら……。」
 彼女は心に呟《つぶや》いているのだった。
 翌日も熱発が続いた。そして日の暮近くになってから、我慢しきれなくなった葉子の希望で、K――博士に来診を乞《こ》うことにした。
 縫紋《ぬいもん》の羽織
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