横たわっていた。髪に綺麗《きれい》なウエイブがかかっていて、顔も寝る前に化粧したらしく、少し濃いめの白粉《おしろい》に冷たく塗られて、どんな夢を見ようとするのか、少しの翳《かざ》しも止《とど》めない晴々しい麗しさであった。彼女は紅《あか》い紋綸子《もんりんず》の長襦袢《ながじゅばん》を着ていた。
 庸三は何か荒々しく罵《ののし》って、いきなり頭と顔を三つ四つ打ってしまった。
 葉子の黒い目がぽかりとしていた。
「私頭が大事よ。食って行かなきゃならないのよ。」
「何だ、そんな頭の一つ二つ。」
 そして傍で呆《あき》れている若い人たちと一緒に引きあげようとした。
「ちょっと。」
 寝ながらの葉子の声がした。庸三は瞬間後へ引き戻された。看《み》ると葉子の表情がにわかに釈《ほぐ》れて、融《と》けるような媚笑《びしょう》が浮かんで来た。
「先生はいてよ。」
 白い手が差し延べられた。場合が場合なので、彼も今夜は彼女の魅惑《みわく》には克《か》つ由もなかった。

      十五

 退院後の葉子の健康は、しかしそのころまだ十分というわけには行かなかった。そしてそういうことがあってから後も、どうかすると熱発を感じたが、外科ではあるが、K――博士《はかせ》のくれる粉薬《こなぐすり》は、ぴったり彼女の性に合っていると見えて、いつも手提《てさげ》のなかに用意していたくらいだったので、少し暖かいところへ出てみたいと思っていた。庸三はちょうど新聞を書いていたから、一緒に行くのに都合がよかった。葉子も別に独りで行きたそうにも見えなかった。それに旅行というほどのことでもなかった。つい無思慮な二人の間の因縁の結ばれた郊外の質素なホテルで、余寒の苛々《いらいら》しい幾日かを過ごそうというだけのことであった。
 けれどホテルへ乗りつけた時、葉子は決して楽しい気分で、部屋へ落ち着いたとは思えなかったが、サンルウムのような広いベランダを東と西に持ったサルンの煖炉《だんろ》には、いつも赤々と石炭が燃やされ、部屋にもスチイムが通っていて、朝々の庭に霜柱のきらきらする外の寒さもしらずに、読んだり書いたりすることができた。それに日曜を除いては昼間は人気《ひとけ》も少なかったが、夜分になると、勤め先きから帰って来る男女の若い外人が、一杯サルンに集まって来て、そう喧《やかま》しくない程度で、楽しげな談笑をつづけていた。葉子は人の少ない時黒い羽織を着てよくそこへ入って行った。そして煖房《だんぼう》の熱《ほて》りから少し離れたところで、アメリカの流行雑誌などを見ていたものだが、外人たちの雰囲気《ふんいき》も嫌《きら》いではなかった。
「先生……。」
 彼女はそう言って、時々人気のない煖房の前へ彼を誘い出すこともあったが、大抵二人きりでいる部屋が気詰りになって来ると、うそうそ廊下へ出て行くのであった。庸三はK――博士とのなかを、朧《おぼろ》げに感得していたものの、先きは人も知った人格者であり、尊《とうと》いあたりへも伺候して、限りない光栄を担《にな》っている博士なので、もし葉子の嬌態《きょうたい》に魅惑された人があるとしても、それは病院の他の若い人か、それとも、例の婦人雑誌の記者だろうかとも思ったり、または真実はやっぱり刀を執ってくれたK――博士のようにも想像されたりした。が、庸三も彼女の物質上のペトロンを失ったことに、多少の責任を感じてもいたし、物質的にまだ一度もこれという力を貸していないことに相当|負《ひ》け目も感じていたので、そんな点では決してぼんやりしていない彼女なので、何かの手蔓《てづる》を見つけて、その方の工作も進めつつあるのだろうという気もしながら、とかく不安や嫉妬《しっと》に理性を失いがちな彼ではあったが、そうした憂鬱《ゆううつ》な苦悩のなかにも、彼としては八方から襲いかかって来る非難のなかに、彼女の存在を少しでも文壇的に生かしたいと思った。恋愛も恋愛だが、この崩れかかって来た恋愛に、何か一つの目鼻がつき、滅茶々々《めちゃめちゃ》になった彼の面目《めんぼく》が多少なりとも立つものとすれば、それは彼女の才能を伸ばすことよりほかの手はなかった。
 冬の日差しの暖かい静かな町へ、二人は時々散歩に出かけたが、庸三に寄り添って歩いている葉子はとかく神経的な感傷に陥いりがちで、鈍感な彼に何かを暗示するような謎《なぞ》の言葉をかけることもあった。ちょっと特色のあるホテルの食事にも飽きると、遊びに来た若い人たちをも誘って、ガアドの先きにある賑《にぎ》やかな小路の小料理屋へ入って、海岸の町らしい新鮮な蟹《かに》や貝の料理を食べることもたびたびあった。ちょうどプロレタリア文学の萌芽《ほうが》が現われかけて来たころで、若い人々の文学談にもそんな影が差していたが、話の好きな葉子はことに若
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