ハイヤアのクションに納まったが、庸三は何だか進まないような気がした。と言って小夜子のこの行動にも別に意志があるわけでもなかった。少《わか》いおりに悪気《わるげ》のない不良少女団長であった彼女の、子供らしい思い附きにすぎないのであった。
 自動車を還《かえ》して、二人で探偵社の薄闇《うすぐら》い応接室へ入って行ったが、しばらく待たされている間に小夜子は思いついたように、
「私何だか五反田の××閣あたりのような気がしますね。」
「××閣? それは何さ。」
「震災後できた大きな料理屋ですの、連れ込みのね……あすこに籠《こ》もっていれば絶対安全ですからさ。」
 庸三はそんなことに暗かったが、葉子も実はそういろいろな世界を知っているわけでもなかった。しかし確信あるらしく小夜子にそう言われると、葉子と博士がそこへ乗り込んで行ったもののように思えても来た。
 小夜子はそわそわしていたが、試《ため》しに××閣へ電話をかけてみようと言うので、あたふた廊下へ出て行って、受話機をはずした。庸三も傍《そば》に立っていた。
「もしもし、貴方《あなた》のところに梢さんという女の方行っているはずですが……」
 先方から女中の声が聞こえた。
 小夜子はちょっと受話機の一方を手で塞《ふさ》いで、
「図星らしいわ。」
 と茶目ぶりな目を丸くしたが、再び電話口に現われた女中の返事では、やはりいないらしかった。
「初めいるような返事だったんですよ。梢さんなんて名前そうざらにあるはずじゃないんですもの。無駄だと思ってドライブしてみません?」
「そうね。」
 街《まち》は電燈の世界になっていた。二人は何か引込みのつかないような気持で、酔興にもさらに料金を約束してタキシイを駆った。いつになく小夜子は興奮していたが、庸三もこの機会にそんな家も見ておきたかった。
「どうせ飯でも食うつもりなら……。」
「そうよ。」と小夜子は少し間をおいてから、
「でも私あすこ駄目なのよ。」
「ああ、そう。」
「私|麹町《こうじまち》の屋敷にいる時分、病気で一月の余もあすこにいたことがあるんですの。そこへある人が来て寝そべっているところへ、突然やって来たものなんですの。女中がそのことをしらせに、ばたばたとやって来たもんですから、彼は大狼狽《だいろうばい》で、洋服を引っ抱えたまま庭へ飛び降りたのはよかったけれど、肝腎《かんじん》の帽子が床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。」
「ある人とは?」
 小夜子は独逸《ドイツ》の貴族の屋敷に、老母もろとも同棲《どうせい》することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に世帯《しょたい》をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。
 話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と生垣《いけがき》を結い繞《めぐ》らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって訊《き》かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の黒羅紗《くろラシャ》のコオトに裹《くる》まって、天鵞絨《ビロード》の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の赭《あか》ら顔が照らし出されていたが、細面《ほそおも》の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、俛《うつむ》きながら煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけていた。庸三は何か胸糞《むなくそ》の悪いような感じで、この家の気分もおよそ解《わか》るような気がした。今まで庸三は、あの風采《ふうさい》の立派な博士の傍《そば》で、わざと原稿など書いて見せて、あるいは得意そうに読んでみせたりして、無邪気に女流作家の矜《ほこ》りを誇示しようとしている、葉子の顔や様子を、その一つの部屋のなかに幻想していたのだったが、それもあえなく形を消してしまった。
「こういう時は、こうでもしないとこの先生の気持はおさまらない。」
 小夜子がそう言っているように思えた。
 やがて二人は憑《つ》いていた狐《きつね》が落ちたような気持で、帰路に就《つ》いた。
「莫迦《ばか》らしい、十二円損してしまいましたね。」
 川ぞいの家の門の前で自動車をおりる時、小夜子はそう言って笑った。
 するとその夜おそく、庸三がK――青年と子供をつれて、春らしく媚《なま》めいた空の星を眺めながら、埃《ほこり》のしずまった通りを歩いたついでに、ふと例の旅館の重い戸を開けて、白い幕の陰にいた女中にきいてみると、梢さんがいるというのであった。
「もうお寝《やす》みになっていますけれど……。」
 それを聞きすてて、三人でどかどか上がって行った。
 果して葉子は寝床に
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