なくなっていた。それどころか、彼女はずっとその前から牛や鶏の肉をも断っていた。お茶も呑まないことにしていた。それが単に花柳界に棲《す》む女たちのあいだにはやるちょっとした迷信的な洒落《しゃれ》のようなものか、それとももっと深い動機に基づいた贖罪的《しょくざいてき》なものか、花柳界の女たちよりか新らしく、一般的のモダアン・ガアルよりも古いところのある小夜子だとしても、酒をぴったり口にしなくなったことは、どこか心の奥にしっかりした錠の卸されてある証拠だと思うよりほかなかった。
 小夜子の家《うち》は相変らず盛《さか》っていた。綺麗《きれい》にお化粧した彼女は、帳場に坐って芸者屋へ電話をかけたり、酒のお燗《かん》をしたりしていたが、客の特別の誂《あつら》えだといって、ウイスキイを註文《ちゅうもん》したりしていた。世間はまだそう行き詰まってはいなかった。世界戦争景気の余波がまだどこかに残っていて、人々は震災後の市の復興にみんな立ちあがっていた。金座通りや浜町公園もすでに形が整っていたし、思い切り大規模の清洲橋《きよすばし》も完成していた。それにもかかわらずこの辺一帯の地の利もすでに悪くなって、真砂座《まさござ》のあった時分の下町|情緒《じょうしょ》も影を潜め、水上の交通が頻繁《ひんぱん》になった割に、だだ広くなった幹線道路はどこも薄暗かった。しかし環境の寂しい割りに小夜子の家はいつも賑《にぎ》やかであった。花柳界離れのした彼女のマダムぶりに、原稿紙やパレットに親しんでいるような人たちが、繋《つな》がり合ってどかどか集まって来た。
 小夜子はあまりお馴染《なじみ》でもない座敷だと、少しサアビスをしてから、息ぬきに銀座辺へタキシイを飛ばすこともまれではなかった。庸三は時々銀座|界隈《かいわい》で、いくらか知っている顔も見えるような家へ彼女をつれて行ったが、その中にはでくでく肥《ふと》った断髪のマダムのやっているバアなどもあった。そこは銀座裏の小ぢんまりした店で、間接に来る照明が淡蒼《うすあお》い光を漂わし、クションに腰かけて、アルコオル分の少ないカクテルを一杯作ってもらって、ちびちび嘗《な》めていると、自然に神経の萎《な》え鎮《しず》まるような気分のバアであった。彼女はよほど以前に汽車のなかで、誰とかから庸三に紹介されたことがあると言っていたが、彼女の過去の閲歴や身分も嗅《か》ぎ出そうとしても、そんな問題には皆目触れることができなかった。もちろん庸三は小夜子からも、ほんの梗概《こうがい》だけしか解っていない過去を嗅ぎ出そうとして、油断なく神経を働かしているのだったが、過去どころか、現在の彼女の生活の裏さえ全く未知の世界であった。庸三にはとかく人に興味を持ちすぎる悪い習慣もあった。
 そのころ銀座では、あまり趣味のよくない大規模のカフエが熾《さか》んに進出しはじめて、あの辺一帯の空気をあくどい色に塗りあげ、弱い神経の庸三などは、その強烈な刺戟に目が眩《くら》むほどだったが、高声機にかかったジャズの騒音も到《いた》るところ耳を聾《つんぼ》にした。ナンバワン級の女給の噂《うわさ》などが娯楽雑誌や新聞を賑《にぎ》わせ、何か花々しい近代色が懐《ふとこ》ろの暖かい連中を泳がせていた。小夜子のところへ雪崩《なだ》れこんで来るのも、時にはそういった連中の一部であったが、庸三も仲間の人たちと会か何かの崩れに、たまにはそういう新らしい享楽の世界へ入ることはあっても、カクテル一杯を呑むのに骨が折れるくらいなのに、性格的な孤独性と時代の距離があるので、いつも戸惑いしたような感じしかなかった。すべてそういった享楽の世界では、彼はいつもピエロの寂しい姿を自身に見出《みいだ》すだけであった。肥ったマダムの家だけは、ほどよく静かに酒を呑んでいる、インテリ階級の少数の人と顔が合うだけだったので、銀ぶらには適当であったが、彼はそうたびたび川沿いの家へ足を運ぶことを、葉子に感づかれて、痛くもない腹を探ぐられるのもいやだったし、そうやって彷徨《さまよ》っていても、心の落着きはどこにも求められなかった。
 書斎に帰っていると、門の開く音がして、続いて玄関の硝子戸《ガラスど》の開く音がした。庸三は、ちょうど子供を相手に、葉子の噂をしているところだったが、そこへ彼女が割り込んで来て、部屋がにわかに賑やかになった。葉子は今日も病院へ行って、入院中から懇意になった若い医員の二三の人たちと、神田まで食事をしに行って、やがてその連中と別れてから、シネマ・パレスで「闇《やみ》の光」の映画を見て来たというのだった。見ようによっては何か怪しい興奮と疲労の迹《あと》かとも思われないこともないような紅潮が顔に差していたが、芸術の前にはとかく感激しやすい彼女のことなので、それは真実かも知れないのであった
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