。
「K――博士《はかせ》も一緒?」
庸三は葉子の手術のメスの冴《さ》えを見せたあの紳士のことを訊《き》いてみた。
「ううん、K――さん行かない。」
葉子は首をふった。
「あの人たちみんな罪がなくて面白いのよ。作家の人たちとまるで気分が違うわよ。」
子供と葉子のあいだに文学談が初まり、ジャアナリズムの表面へは出ない仲間の噂《うわさ》も出た。これからの文学を嗅《か》ぎ出そうとしている葉子は、しきりに興味を唆《そそ》っていたが、彼の口にする青年学徒のなかには、すでに左傾的な思想に走っている者もあって、既成文壇を攻撃するその熱情的な理論には、彼も尊敬を払っているらしかった。
「それにあいつは素敵な好男子さ。」
葉子はそういう噂を聞かされるだけでも、ちょっと耳が熱して来るほどの恋愛空想家であったが、そのころはまだそんなに勢力をもつに至らなかったマルクス青年の、それが相当新鮮なものであったので、何か颯爽《さっそう》たる風雲児が庸三にも想見されたと同時に、葉子がいつかその青年と相見る機会が来るような予感がしないでもなかった。庸三は心ひそかに少しばかりの狼狽《ろうばい》を感じないわけに行かなかったが、それが葉子にふさわしい相手らしいという感じもした。そして何か事件の起こるかも知れない時の自身の取るべき態度をも、その瞬間ちょっと想像してみたりした。
「何か食べに行かない?」
庸三は言い出した。
「私みつ豆食べたい。食べましょう。」
やがて三人|繋《つな》がって外へ出た。
すると温かい宵《よい》のこと、再び葉子が下宿から姿を消した。
出て行くその姿を、電車通りの角のフルウツ・パアラにいる長男の庸太郎がちらりと見た。
「どうもそうらしいんだ。黒い羽織を着て雨傘《あまがさ》を差して、手に包みか何かもっているらしかった。原稿書きに行ったんかもしれない。」
彼は話した。
そのちょっと前に、今いつもの婦人雑誌記者と、自動車をおりて葉子が例の旅館へ入って行くところを、ふと通りがかりに見たといって、庸太郎がそれとなく報告するので、わざとしばらく近よらないようにしていた庸三が行ってみると、もうその時はその若い記者も帰ったあとで、葉子は夕刊を見ながらオレンジを食べていた。そして庸三の入って来るのを看《み》て、好い顔をしなかった。
庸三の詰問に対する葉子の答えでは、彼女は記者をさそって、行きつけの支那料理屋で、晩飯を御馳走《ごちそう》しただけだというのだった。記者が葉子の讃美者であるだけに、庸三はちょっと疑念をもった。
「だってああいう人たちには、私などはたまにそういうことをしておく必要があるのよ。私原稿料の前借だってしているのよ。」
庸三はそれもそうかと思って、口を噤《つぐ》んでしまったのだが、その晩もちょっとその辺を散歩するつもりで、二人で旅館を出ると、わざと大通りを避けて区劃《くかく》整理後すっかり様子のかわった新花町あたりの新しい町を歩いた。そして天神の裏坂下から、広小路近くのお馴染《なじみ》の菓子屋が出している、汁粉屋《しるこや》へも入ってみた。よく彼の書斎に現われる、英文学に精《くわ》しい青年の兄の経営している、ちょっと風がわりの店であった。
そしてそうやって歩いていると、いつかまた別れる潮を見失って、彼は葉子の部屋で一夜を明かすのであった。
庸太郎と今一人、最近の英文学に興味をもっているその青年H――と一緒に、庸三の全集刊行の運動をしようとか何とか言って、葉子がまだ近所に一軒|世帯《しょたい》をもちたての時分、いきなり訪問して来て以来、まるで内輪の人のようになって、今は何かに不自由がちな庸三の家政上のことに働いてくれる青年K――も、ちょうど庸三の部屋へ来ていて、少し顔色をかえながら下宿と旅館へ葉子を捜しに行ったのだったが、どこにも見えなかった。
やがてK――青年は、下宿に留守居をしている葉子の小間使のお八重を、庸三の部屋へつれて来た。去年の夏、子供たちについて、葉子の郷里から上京して来たお八重は顔容《かおかたち》もよく調《ととの》って、ふくよかな肉体もほどよく均齊《きんせい》の取れた、まだ十八の素朴《そぼく》な娘だったので、庸三のところへ来る若い人たちのあいだに時々噂に上るのであったが、今庸三の前へつれられて来ると、ひどく困惑して、どこか腹の据《す》わったようなふうで、顔を紅《あか》くして居ずまっていた。
「葉子さんどこへ行ったの? 八重ちゃん知ってるんだろう。」
K――青年は気軽に訊《き》いてみた。そして二三度|詰《な》じってみても彼女は迷惑そうに笑っているだけで、何とも答えなかった。そしてその態度で見ると、庸三の部屋で感ずることのできないような、下宿の部屋でのいろいろの事件を、あまりに知りすぎているので、そんな質
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