と訊《き》いてみたりして、彼女の説明に微笑するくらいのことで、文学の質も立場も違うところから、格別注意を与えようともしなかった。短篇となると、彼女は恭《うやうや》しく彼の前に坐って、師弟の礼儀というようなものを崩さず、目を通してもらうことを哀願した。そして読みおわってから庸三が二三批評の言葉を口にすると、彼女は「どうもすみません」と言って、嬉《うれ》しそうにお辞儀をするのであった。庸三は自分の作風を模倣でもしたら、その人は大変損をするに違いないと考えていたし、教えらるるところがあろうとは思えなかった。でも彼女に才能がないわけではなかった。もっと骨格をつければ暢《の》びて行くだろうとは考えていたので、それにはいくらか自身のレアレズムの畑へ引き込んでみるのも悪くはあるまいと思っていた。恋愛も恋愛だが、葉子の建前からいえば、文学修行と世の中へ押し出してもらうことが彼女のかねがねの願いなので、彼の文壇的名声が一朝失墜したとなれば、恋愛の焔《ほのお》もその瞬間消えてしまうのも当然だったが、作品の反響もこのごろ思わしくないのに、秋本の消息も途絶えて、せっかく捜しに行ってみても、どこに潜《もぐ》っているかさえ解らなかったので、そんなこんなで葉子もすっかり気を腐らしていた。
しかし秋本の問題に、未練らしくいつまでもこだわっている葉子でもなかった。彼をそうした絶望に逐《お》いやったことも可哀《かわい》そうに思えたし、好い金の蔓《つる》を見失ったことも残念だったので、なおいくらかの自信と希望を失わないながらに、何か落し物でもしたような心寂しさを感じていた。
するうちに春が訪ずれて来た。大きな石が積み重ねられ、植木が片寄せられたままになっている庸三の狭い庭にも、餌《えさ》を猟《と》りに来て、枝から枝を潜《くぐ》っている鶯《うぐいす》の軽捷《けいしょう》な姿が見られ、肌にとげとげしい余寒の風が吹いていた。庸三の好きな菜の花が机の上の一輪|挿《ざ》しに挿されるころになると、葉子の蒼《あお》かった顔にもいくらか生気が出て来て、睫毛《まつげ》の陰に潤《うる》んでいた目にも張りが出て来た。名伏しがたい仄かな魅力を潜めている、頬《ほお》から顎《あご》のあたりにも、脹《ふく》らみが取り戻されて来た。どうにか用心ぶかく冬を凌《しの》いで来た庸三も、毎年このころになると、弱い気管の方にこびり着きやすい感冒にかかって床に就《つ》くのが例になっていたが、どうした訳かその年はそんなこともなく、世間の非難や文学的な悩みはありながら、とにかく彼女に紛れてうかうかと日を送っていた。
葉子は二日おきぐらいに、病院へ行くと言っては出て行ったが、時には関係の婦人雑誌の編輯室《へんしゅうしつ》をも訪れた。若い記者たちと銀座でお茶を呑《の》んで来ることもあれば、晩飯の御馳走《ごちそう》になることもあった。
「今日は××さんに御飯御馳走になって、和泉《いずみ》式部の話聞いて来たわ。」
葉子は聞いて来たことを、また庸三に話して聞かせるのだったが、書きはじめた時分から、ちょいちょい原稿のことで訪れて来た若い記者は、今でも時々やって来た。葉子は締切りが迫って来ると、下宿の部屋からも姿を消して、近くにある静かな旅館の一室に立て籠《こ》もることもあったが、ある時などは、どこを捜しても見つからないこともあった。庸三は気の許せないような彼女が、今はどんなに懐《なつ》いて愛し合っているように見えていても、いつどこへ逃げて行くかわからないという不安は絶えずもっていた。
「東京というところは、居つけてみればみるほど広いのね。もしも先生がふと姿を消すようなことがあるとしても、とても捜し出せやしないでしょうね。」
葉子はいつかそんなことを口にしていたが、それは自分が逃げる時のことを考えてのことなのはもちろんであったが、一度失敗もしているので、この年取った男にかかっては、迂濶なこともできないとかねがね用心しているに違いなかった。しかし庸三は彼女が下宿にも旅館にもいないとなると、旅館で書いている間、来てはいけないと言われていることと照らし合わせて、彼女の態度が癪《しゃく》に障《さわ》っていた。いつから旅館をあけているのか、それも解《わか》らなかった。ずっと部屋に籠もって勉強しているのか、それとも時には創作慾の刺戟《しげき》を求めにシネマ・パレイスや武蔵野館《むさしのかん》へ行くとか、蓄音器を聞きながら、お茶を呑《の》みに喫茶店へ入ったりして感興を唆《そそ》とうとしているのか。それくらいはいいとしても、誰か若い異性を部屋へ連れこんでいるのではないかという気もしたのだった。そういう時は彼も心のやり場を求めて、川ぞいの家へ遊びに行くのが習慣になっていた。小夜子はかつての失敗に懲りて、ふっつり盃《さかずき》を口にし
前へ
次へ
全109ページ中53ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング