たので、じきに病室を出た。

 葉子が退院して来たのは、手術の日から四十日も経《た》ってからであった。もう二月の初めだったが、その間に彼女の二番目の女の子が感冒にかかって、肺炎になり損《そこな》い、それがやっとのことで癒《なお》ったかと思うと、今度は庸三の家《うち》で咲子が病床に就《つ》いていた。
 庸三はその後も二度ばかり、夜になってから病室を見舞ったのであったが、二度とも好い印象を受けなかった。一度は師匠にあずけてある瑠美子の春着を作るために、デパアトの外廻りの店員を呼び寄せて、派手な友禅ものを、部屋一杯にひろげていたし、一度はベッドの上から手拍子を取って、いつもの童謡を謳《うた》いながら、瑠美子を踊らせていた。看護婦や宿直の若い医員だちを呼び集めて、陽気に騒いでいるのだったが、葉子は長い袖《そで》を牀《ゆか》まで垂らして、熔《と》けるような声で謳っていた。
 庸三はどこでもそんなふうにしなければ治まらないらしい彼女を、苦々しく思わないわけに行かなかったが、それを言う日になれば、能弁な彼女の弁解も聴《き》かなければならなかった。
 しかし退院して来てからの葉子には、そんな浮わついた気分はまるで無くなっていた。それに痍《きず》もまだ充分ではなかった。
「当分通わなきゃならないのよ。」
 彼女は畳や木の香の高い彼の部屋へ、そっとやって来て、そんなことを言っていた。
「結核じゃないか。」
「それも幾らかあるらしいわ。沃度剤《ヨードざい》も買わせられたの。」
 そしてその後で、葉子は病院で受け取った秋本の手紙を帯の間から出して、
「せっかく行ったのに、予期に反して、私が飛びついてもくれなかったといって怒っているの。今まで月々送ったお金の計算もしてあるの。もうすっかり人生がいやになったから、これから漂浪《さすらい》の旅に上る、というようなことも書いてある。」
 そう言って長さ四五尺もある手紙を繰り拡《ひろ》げて見せた。庸三はちょっと手に取って見た。熱情の溢《あふ》れたような文字が、彼の目に痛く刺さるので、ろくに読む気にもなれなかった。秋本について今まで葉子の言っていたことは、すべて嘘《うそ》でないことが、初めて確かめられた。葉子に猜疑《さいぎ》の目を向けていたのが、すまないような気がした。秋本に対しても彼も同罪だと観念した。
「金をくれる人がなくなって、困ったもんだな。」
 葉子は立てた長い両膝《りょうひざ》を手でかかえながら、呟《つぶや》いた。
「また先生のとこへ来ようかな。子供をお母さんに預けて、田舎《いなか》へ還《かえ》して……。」
「来てもいいよ。」
 庸三は答えた。また何か起こるに違いない、――彼はそれも思わないわけにはいかなかったが、差し当たりそうするよりほかなかった。毒気のない態度も感じが悪くなかった。
 しかし葉子は前よりも、少し用心深かった。庸三の部屋へ入って来るにしても、朝から晩まで彼の傍《そば》に居きりにすることは、何かと不便であった。まだ本統には見切りをつけていない秋本との交渉を、自分が直接に開始する場合にも、田舎へ還った母を通しての間接の場合にも、庸三に打ち明けられないことも出て来るに違いなかった。それでなくても息をぬく場所が、どこかに無くてはならなかった。そんな場合の用心に、葉子は隣りの下宿に一と部屋取っておくことにして、荷物をそっくり裏の家へ運びこんで来た。例の箪笥《たんす》と鏡台が庸三の部屋へ持ち込まれて、化粧品の香がその日から仄《ほの》かに部屋に漂った。

      十四

 葉子はそのころになっても、なお婦人雑誌の連載物を書きつづけていたが、初めの意気込みほど人気は湧《わ》き立たなかった。もともと雑誌の方では、とかく世間の問題をおこしがちな彼女の過去現在の、好いにつけ悪いにつけ、何か花やかな雰囲気《ふんいき》を周囲に投げつつあるところに、ジャアナリステックな価値を見出《みいだ》そうとしたものであったが、一回二回と書かしてみると、思ったよりも好いので、一層|力瘤《ちからこぶ》を入れることにはなったが、庸三と取り組んでの恋愛事件がひどく世間の感情を害していた最中でもあったので、情熱的な彼女の作品も大向うから声はかからなかった。もちろん淡い夢のような作品その物にも、彼女独得の情熱と情緒《じょうしょ》がいかに溢《あふ》れていたにしても、一般に受ける性質のものではなかった。ちょうど社会批評家としてすでに一地歩を占めている、ある婦人の作品と並んでいたが、葉子はそれを自分の作品と読み比べてみて、何となく厭味《いやみ》で古いと思っていたし、少しは悪くも言ってみたいこともあった。
 無精な庸三のことなので、その作品に関して時々話をしかけられても、読んだのは一回きりで、解《わか》らないところを「これはどういうんだ」
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