た反抗と意地のようなものと、今まで経験したことのない、強いというよりか、むしろ孤独な老年の弱気な寂しい愛慾の断ち切りがたさのために、とかく自己判断と省察とがなまくらになって、はっきり正体を認めることのできないようなものではあったが、刻々に化膿《かのう》して行くような心の疼《うず》きは酷《ひど》かったが、――差し当たって彼が自身の本心のようなものに、微《かす》かにも触れることのできたのは、彼女の最近のヒステリックな心を、ともすると病苦と一つになってひどく険悪なものにして来る、彼への対立気分のためであった。時とすると、葉子は田舎《いなか》からとどいた金を帯の間へ入れて、病室のベッドでかけるような、軽くて暖かい毛布団《けぶとん》を買うために、庸三の膝《ひざ》のうえに痛い体を載せて、銀座まで自動車を駆りなどした。彼女の頸《くび》にした白狐《びゃっこ》の毛皮の毛から、感じの柔軟な暖かさが彼の頬《ほお》にも触れた。この毛皮を首にしていれば、絶対に風邪《かぜ》はひきッこない。――彼はそう思いながら、痩《や》せっぽちの腿《もも》の痛さを怺《こら》えなければならなかった。またある時は、内弟子に預けてある葉子の愛嬢の瑠美子も出るという、年末の総ざらいの舞踊会が、雪枝の家《うち》で催されるというので、葉子は庸三にも来るようにと誘うので、あまり気の進まなかった庸三は、しばらく思案した果てに、やや遅れて青山の師匠の家を訪れたが、庸三が予覚していたとおり、彼の来たことを妙に憂鬱《ゆううつ》に感じているらしい彼女を、群衆のなかに発見した。庸三は舞台の正面の、少し後ろの方に坐って、童謡を踊る愛らしい少女たちを見ていたが、後ろの隅《すみ》の方に、舞踊にも造詣《ぞうけい》のふかい師匠の若い愛人の顔も見えた。葉子は始終紋附きの黒い羽織を着て、思いありげな目を伏せ、庸三の少し後ろの方に慎《つつ》ましく坐っていたが、そうした明るい集りのなかで見ると、最近まためっきり顔や姿の窶《やつ》れて来たのが際立《きわだ》って見えた。葉子はいつかこの帰りがけに、省線の新宿駅のブリッジのところで、偶然この青年に逢《あ》ったとかで、帰ってから、感じのよかったことを庸三にも話して聞かしたものだったが、実際はそれよりもやや親しく接近しているらしいことが、彼女のその後の口吻《くちぶり》でも推測できるのであった。庸三の頭脳にはどうかすると暗い影が差して来たが、師匠に対する葉子の立場を考えて強《し》いても安心しようとした。彼こそ彼女の恰好《かっこう》な相手だという感じは、葉子と一緒に師匠を初めて訪問した時の最初の印象でも明らかであり、この青年とだったら、いくら移り気の葉子でも、事によると最後の落着き場所として愛の巣が営めるのではないかという気もしたし、敏捷《びんしょう》な葉子と好いモダアニストとして、今売り出しの彼とのあいだに、事が起こらなければむしろ不思議だという感じもしないことはなかったが、一つの頼みだけはあった。
「あれなら本当の葉子のいい相手だ。」
庸三はそれを口にまで出した。ちょうど文壇に評判のよかった「肉体の距離」というその青年の作品が、そうした葉子の感情を唆《そそ》るにも、打ってつけであった。絶えず何かを求め探している葉子の心は、すでに娘の預り主の師匠にひそかに叛逆《はんぎゃく》を企てているに違いなかったが、庸三の曇った頭脳では、そこまでの見透かしのつくはずもなかった。たといついたにしても、病人が好い博士《はかせ》の診断を怖《おそ》れるように、彼はできるだけその感情から逃避するよりほかなかった。結婚することもできないのに、始終風車のように廻っている葉子のような若い女性の心を、老年の、しかも生活条件の何もかもがよくないだらけの、庸三のような男が、永久に引き留めておける理由もないことは、運命的な彼の悩みであったが、また悽愴《せいそう》なこの恋愛がいつまで続くかを考えるたびに、彼は悲痛な感じに戦慄《せんりつ》した。みるみる彼の短かい生命は刻まれて行くのだった。
お浚《さら》いが済んだ後で、その青年はじめ二三の淑女だちとともに、庸三と葉子も、軽い夜食の待遇《もてなし》を受けて、白いテイブル・クロオスのかかった食卓のまわりに坐って、才気ばしったお愛相《あいそ》の好い師匠を中心に、しばし雑談に時を移したが、その間も葉子は始終|俛《うつむ》きがちな蒼白《あおじろ》い顔に、深く思い悩むらしい風情《ふぜい》を浮かべて、黙りとおしていた。それが病気のためだとしても、そんなことは前後に珍らしかった。
それと今一つは、手術場での思いがけない一つの光景が、葉子の、しかしそれはすべての女の本性を、彼の目にまざまざ見せてくれた。
庸三はその時担架に乗って、病室から搬《はこ》び出されて行く葉子について、つ
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