いて、隣の三階の窓から見下ろされる場所に、突き出して建てた、床のやや高めになった六畳の新しい自分の部屋に机をすえていると、台湾|檜《ひのき》の木の匂いなどもして、何か垢《あか》じみた古い衣をぬぎすてて、物は悪くてもとにかく新しいものを身につけたような感じで、ここはやはりこれからの清浄な仕事場として、葉子に足を踏み入れさせないことにしようと、彼は思ったほどであった。
葉子はある時は、ほぼ形の出来かかった建築を見に来て、機嫌《きげん》の好いときは、二階の子供の書斎の窓などについて、自身の経験と趣味から割り出した意見を述べ、子供たちと一緒になって、例の愛嬌《あいきょう》たっぷりの駄々っ子のような調子で、日本風の硝子《ガラス》の引戸の窓に、洋風の窓枠《まどわく》を組み込んで開き窓に改めさせなどしたこともあったが、しかし子供たちのための庸三の家のこの増築は、彼女にとってはあまり愉快なものではなかった。
「いいもんだな先生んとこは、家が立派になって。」
葉子は笑談《じょうだん》のように羨望《せんぼう》の口吻《こうふん》を洩《も》らすこともあったが、大枚の生活費を秋本に貢《みつ》がせながら、愛だけを独占しようとしている庸三の無理解な利己的態度が、時には腹立たしく思えてならなかった。たといそれが庸三自身の計画的な行動ではなく、彼女自身の悧巧《りこう》な頭脳《あたま》から割り出されたトリックであるにしても、葉子自身そうした苦しいハメに陥ったことに変りはなかった。彼女はどんな無理なことも平気でやって行けるような、無邪気といえば無邪気、甘いといえば甘い、自己陶酔に似たローマンチックな感情の持主で、それからそれへと始終巧妙に、自身の生活を塗りかえて行くのに抜目のない敏感さで、神経が働いているので、どうかすると何かしら絶えず陰謀をたくらんでいる油断も隙《すき》もない悪い女のように見えたり、刹那々々《せつなせつな》に燃え揚がる情熱はありながらも、生活的に女らしい操持に乏しいところから、ややもすると娼婦型《しょうふがた》の浮気女のような感じを与えたりするのであった。彼女は珍らしもの好きの子供が、初めすばらしい好奇心を引いた翫具《おもちゃ》にもじきに飽きが来て、次ぎ次ぎに新しいものへと手を延ばして行くのと同じに、ろくにはっきりした見定めもつかずに、一旦好いとなると、矢も楯《たて》もたまらずに覘《ねら》いをつけた異性へと飛びついて行くのであったが、やがて生活が彼女の思い昂《あが》った慾望に添わないことが苦痛になるか、または、もっと好きそうなものが身近かに目つかるかすると、抑えがたい慾望の※[「※」は「閻」の「門がまえ」の中の右側に「炎」、第3水準1−87−64、212−上−9]《ほのお》がさらに彼女を駆り立て、別の異性へと飛び蒐《かか》って行くのであったが、一つ一つの現実についてみれば、あまりにも神経質な彼女の気持に迫り来るようなものが、この狭い地上の生活環境のどこにも見出《みいだ》されようはずもないので、到《いた》るところ彼女の虹《にじ》のような希望は裏切られ、わがままな嘆きと悲しみが、美しい彼女の夢を微塵《みじん》に砕いてしまうのであった。しかし北の海の荒い陰鬱《いんうつ》さの美しい自然の霊を享《う》けて来た彼女の濃艶《のうえん》な肉体を流れているものは、いつも新しい情熱の血と生活への絶えざる憧《あこが》れであった。とかく生活と妥協しがたいもののように見える彼女の恋愛巡礼にも、あまりに神経的な打算があった。大抵彼女の産まれた北方には、詳しくいえばそれは何も北方に限ったことでもないが、女の貞操ほどたやすく物質に換算されるものはなかった。庸三は二度も行って見た彼女の故郷の家のまわり一体に、昔、栄えた船着場の名残《なご》りとしての、遊女町らしい情緒《じょうしょ》の今も漂っているのと思いあわせて、近代女性の自覚と、文学などから教わった新しい恋愛のトリックにも敏《さと》い彼女が、とかく盲目的な行動に走りがちである一方に、そこにはいつも貞操を物質以下にも安く見つもりがちな、ほとんど無智《むち》といえば言えるほど曖昧《あいまい》な打算的感情が、あたかも過去の女性かと思われるほどの廃頽《はいたい》のなかに見出されるのを感ずるのであった。もちろん末梢《まっしょう》神経の打算なら、近代の人のほとんどすべてがそれを持っていた。庸三もそれに苦しんでいる一人であった。
庸三は葉子の痔疾《じしつ》の手術に立ち会って以来、とかく彼女から遠ざかりがちな無精な自身を見出した。
もちろんそれは前々から彼の頭脳にかかっていた暗い雲のような形の、この不純でややこしい恋愛に対する嫌悪感《けんおかん》ではあったが――そしてそれは激しい非難や、子供たちの不満のために醸《かも》された、妙にねじけ
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