さを胡麻化《ごまか》していた。
翌日になると、葉子は時間を見計らって、家を出て行った。そして銀座で水菓子の籠《かご》を誂《あつら》えると、上野駅まで自動車を飛ばした。しかもその時はもう遅かった。重い水菓子の籠を赤帽に持たせて、急いで歩廊へ出て行った時には、汽車はすでに動き出していた。
葉子はすごすご水菓子を自動車に載せて、帰って来た。そして着替える隙《ひま》もなく、その籠を彼の田舎《いなか》の家へ送るために、母と二人で荷造りを初めた。籠は大粒の翡翠色《ひすいいろ》した葡萄《ぶどう》の房《ふさ》や、包装紙を透けて見える黄金色《こがねいろ》のオレンジなどで詰まっていた。
「少しくらい傷《いた》んでも、田舎ではこんなもの珍らしいのよ。」
葉子はさすがに度を失っていた。
しかし彼女のその夜の気紛《きまぐ》れな態度が、つまりどんなふうに今後の運命に差し響いたであろうかは、大分後になってから、やっと解《わか》ったことで、まれの媾曳《あいびき》から帰って来た時の、前夜二回の葉子の胡散《うさん》らしい報告が、事実であったことが、庸三に頷《うなず》けたのも、その時になってからであった。
十二
いよいよ葉子を病院へ送りこんでからの庸三は、にわかにこの恋愛生活の苦悩から解放されたような感じで一時ほっとした。それには永年の懸案であった家の増築ということも彼の気分転換に相当役立った。増築の出来|栄《ば》えが庸三の期待を裏切ったことはもちろんであったが、一旦請負師の要求に応じて少なからぬ金を渡し、貨車で運ばれた建築用材を庭の真中へ積みこまれてしまうと、その用材からしてすでに約束を無視したものだということに気がついていても、今更どうすることもできないのであった。庸三は持合せの金も少なかったし、それほどの建築でもないので、自分からかれこれ設計上の註文《ちゅうもん》を出すことを遠慮して、わざと大体の希望を述べるに止《とど》めておいたのだった。
「余計な細工はいらない。とにかくがっちりしたものを造ってもらいたいんで。」
「ようがす。ちょうど材木の割安なものが目つかりましたから。」
請負師はそう言って、金を持って行ったのであった。この請負師は庸三の懇意にしている骨董屋《こっとうや》の近くに、かなり立派な事務所をもっていて、その骨董屋の店で時々顔が合っていた。同じ店頭へ来て、煎茶《せんちゃ》の道具などを弄《いじ》っている、その夫人のどこか洗練された趣味から推しても、工学士であるその主人に十分建築を委《まか》しきってよいように考えられたものであったが、仕事は別の大工が下受けしたものだことがじきに解って来た。人を舐《な》めたようなやってつけ仕事がやがて初まり、ばたばた進行した。手丈夫ということは、趣味の粗悪という意味で充分認められないこともなかったが、形が出来るに従って彼は厭気《いやけ》が差して来た。しかしもう追っつかなかった。費用がほとんど倍加して来たことも仕方がなかった。住居《すまい》が広くなっただけでも彼は満足するよりほかなかった。そこには古い彼の六畳の書斎だけが、根太《ねだ》や天井を修繕され、壁を塗りかえられて残されてあった。三十年のあいだ薄い頭脳と乏しい才能を絞って、その時々の創作に苦労して来たのもその一室であったが、いろいろな人が訪ねて来て、びっくりしたような顔で、貧弱な部屋を見廻わしたのも、その一室であった。そこはまた夫婦の寝室でもあり、病弱な子供たちの病室でもあった。わずか半日半夜のうちに、十二の夏|疫痢《えきり》で死んで行った娘の畳の上まで引いた豊かな髪を、味気ない気持で妻がいとおしげに梳《くしけ》ずってやっていたのも、その一室であった。お迎いお迎えという触れ声が外にしていて、七月十七日の朝の爽《さわ》やかな風が、一夜のうちに姿をかえた少女の透き徹《とお》るような白い額を撫《な》でていた。そして気が狂わんばかりに、その時すっかり生きる楽しさを失ってしまった妻も、十数年の後の、ついこの正月の二日の午後には、同じ場所で、子供たちの母を呼ぶ声を後に遺《のこ》して冷たい空骸《なきがら》となって横たわっていたのであった。この部屋での、そうした劃期的《かっきてき》の悲しみは悲しみとしても、彼は何か小さい自身の人生の大部の痕迹《こんせき》が、その質素な一室の煙草《たばこ》の脂《やに》に燻《いぶ》しつくされた天井や柱、所々骨の折れた障子、木膚《きはだ》の黝《くろ》ずんだ縁や軒などに入染《にじ》んでいるのを懐かしく感ずる以外に、とてもこれ以上簡素には出来ないであろうと思われるほど無駄を省いた落着きのよさが、今がさつな新築の書斎に坐ってみて、はっきりわかるような気がするほど、増築の部分がいやなものに思われた。しかし、今まで庭の隅《すみ》になって
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