何よりも文章から初めなくちゃ。」
 と言って笑っていたが、今のように親しくなってみると、変化に富んだ彼女の過去については、何一つ纏《まと》まった話の筋に触れることもできなかった。
 子供と平田が交通|頻繁《ひんぱん》な水の上を見ていると、やがて夕方のお化粧を凝《こ》らした小夜子が入って来た。そして胡座《あぐら》を組んだまま、丸々した顔ににこにこしている子供を見ていたが、
「こちらいつかお宅でお目にかかった坊っちゃんですの。」
 庸三も笑っていたが、あらためて平田青年をも紹介して、食べものの見繕《みつくろ》いを頼んでから、風呂《ふろ》へ入った。
 庸三はどこかこの同じ川筋の上流の家で、葉子が秋本と、今ごろ酒でも飲んで気焔《きえん》を挙げているであろうと思われて、それは打ち明けられたことだけに、別にいやな気持もしないのであったが、自身の妙な立場を考えると、何か擽《くすぐ》ったい感じでもあった。すると廊下を一つ隔《へ》だてた、同じ水に臨んだ小室《こべや》の方で、やがて小夜子がお愛相《あいそ》笑いしていると思ったが、しばらくすると再び庸三たちの方へ戻って来た時には、ビイルでも呑《の》んだものらしく、目の縁《ふち》がやや紅《あか》くなっていた。庸三はこのごろ仲間の人たちで、ここを気のおけない遊び場所にしている人も相当多いことを考えていたので、隣りの客がもしかするとその組ではないかと思ったが、小夜子に聞いてみると、それは最近ちょくちょく一人でそっとやって来る、近所の医者だことが解《わか》った。彼も風変りなこのマダムのファンの一人で、庸三もある機会にちょっと診《み》てもらったこともあって、それ以来ここでも一度顔が合った。不思議なことには、それが女学校を出たての葉子がしばらく身を寄せていたという彼女の親類の一人であった。葉子が人形町あたりの勝手をよく知っていて、わざわざ伊達巻《だてまき》など買いに来たのも理由のないことではなかった。そしてそう思ってみると、ぴんと口髯《くちひげ》の上へ跳《は》ねたこのドクトルの、型で押し出したような顔のどこかに、梢家《こずえけ》の血統らしい面影も見脱《みのが》せないのであった。がっちりしたその寸詰りの体躯《たいく》にも、どこか可笑《おか》しみがあって、ダンスも巧かった。庸三は小夜子と人形町のホオルを見学に入ったとき、いかにも教習所仕立らしい真面目《まじめ》なステップを踏んでいる、彼の勇ましい姿を群衆のなかに発見して、思わず微笑したものだった。
「どうです。運動に一つおやりになっては。初めてみるとなかなか面白いものですよ。」
 ドクトルは傍《そば》へ寄って来て勧めた。
 そのドクトルが今夜も来ているのであった。小夜子はそれをことさら煩《うるさ》がっているような口吻《くちぶり》を洩《も》らしていたが、庸三自身も蔭《かげ》でどんなことを言われていたかは解《わか》らないのであった。
 庸三は葉子がこのドクトルの家《うち》に身を寄せていたのを想像してみたりしたが、女学校卒業前後に何かいやな風評が立って、それを避けるために、ドクトルの家でしばらく預かることになったというのは、よくよくの悪い邪推で、真実は音楽学校の試験でも受けに来ていたというのが本当らしかった。庸三は葉子と交渉のあった間、もしくはすっかり手が切れてしまってからも、後から後からと耳に入るのは、いつも彼女の悪いゴシップばかりで、ある時は正面を切って、彼女を擁護しようと焦慮《あせ》ったことが、二重に彼を嘲笑《ちょうしょう》の渦《うず》に捲《ま》きこんで、手も足も出なくしてしまった。
 約束の十時に、庸三は小夜子の家を引きあげた。そして、円タクを通りで乗りすてて家の近くまで来ると、そっと向う前にある葉子の二階を見あげた。二階は板戸が締まっていて、電燈の明りも差していなかったが、すぐ板塀《いたべい》の内にある下の六畳から、母と何か話している彼女の声が洩れた。庸三はほっとした気持で格子戸《こうしど》を開けた。
「一時間も――もっと前よ、私の帰ったのは。」
 彼女はけろりとした顔で、二階へあがって来た。
「どうかしたの。」
「後でよく話すけれど、私|喧嘩《けんか》してしまったのよ。」
 庸三は惘《あき》れもしなかった。
「約束の家で……。」
「うーん、家が気に入らなかったから、あすこを飛び出して、土手をぶらぶら歩いたの。そして別の家へ行ってみたの。それはよかったけれど、お酒飲みだすと、あの人の態度何だか気障《きざ》っぽくて、私|忿《おこ》って廊下へ飛び出しちゃったものなの。そうなると、私後ろを振り返らない女よ。あの人玄関まで追っかけて来たけれど。」
「それじゃまるで喧嘩しに行ったようなものじゃないか。」
「いいのよ、どうせ明日上野まで送るから。」
 葉子はそう言って、寂し
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