の。」
庸三は頷いた。
「あの男、情熱家のようだね。」
「そうよ。私が部屋へ入ると、いきなり飛びついて天井まで抱きあげたりして……でもあの人何だか変なところがあるの。」
葉子は顔を紅《あか》くして、俛《うつ》むいていた。
「今度どこで逢うのさ。」
「どこか水のあるところがいいようなことを、あの人も言っていたけれど……。」
葉子は画家の草葉《そうよう》と恋に陥《お》ちて行ったとき、夜ふけての水のうえに軋《きし》む櫓《ろ》の音を耳にしながら、楽しい一夜を明かしたかつての思い出のふかい、柳橋あたりの洒落《しゃ》れたある家のことをよく口にしたものであったが、今度も多分その辺だろうかとも思われた。
「ちょっと見せてごらん。」
庸三はそう言ってその文を取ってみたが、場所はそれと反対の河岸《かし》で、家の名も書いてあった。それに文句が古風に気障《きざ》で、「ようさままいる」としたのも感じがよくなかった。庸三は案に相違して、むしろ歯が浮くような厭味《いやみ》を感じた。
「一つそっとその家《うち》へ上がって見てやろうかな。」
庸三は笑談《じょうだん》らしく言ってみた。
「ええ、来たってかまわないことよ。」葉子は平気らしく言って、やがて立ちあがった。
「何時ごろ帰る?」
「十時――遅くも十一時には帰って来るわ。」
彼女は指切りをして降りて行った。
庸三は空虚な心のやり場をどこに求めようかと考えるまでもなく、いつも行きつけの同じ大川ぞいの小夜子《さよこ》の家へタキシイを駆るのであった。するとちょうど交叉点《こうさてん》のあたりまで乗り出したところで、その辺を散歩している長男と平田青年とに見つかって、二人はいきなり車に寄りついて来た。
「どこへ行くんです。」
「ううん、ちょっと飯くいに……。」
庸三は少し狼狽《ろうばい》気味で、「一緒に乗らない?」と言ってしまった。
得たり賢しと二人は入って来たものだった。
庸三は多勢《おおぜい》の子供のなかでも、幼少のころから長男を一番余計手にもかけて来たし、いろいろな場所へもつれて行った。珍らしい曲馬団が来たとか、世界的な鳥人が来たとか、曲芸に歌劇、時としてはまだ見せるのに早い歌舞伎劇《かぶきげき》をも見せた。ある年|向島《むこうじま》に水の出た時、貧民たちの窮状と、救護の現場を見せるつもりで、息のつまりそうな炎熱のなかを、暑苦しい洋服に制帽を冠《かぶ》った七八つの彼を引っ張って、到頭|千住《せんじゅ》まで歩かせてしまった結果、子供はその晩から九度もの熱を出して、黒い煤《すす》のようなものを吐くようになった。
「それあ少し乱暴でしたね。」
庸三は小児科の先生に嗤《わら》われたが、子供をあまりいろいろな場所へ連れ行くのはどうかと、人に警告されたこともあった。しかし後に銀ぶらや喫茶店や、音楽堂入りを、かえってこの子供から教わるようになったころには、彼も自分の教育方法が、全然盲目的な愛でしかなかったことに気がついて、しばしば子供の日常に神経を苛立《いらだ》たせなければならなかった。それに大抵年に一度か二度、胃腸の疾患とか、扁桃腺《へんとうせん》とかで倒れるのが例で、中学から上の学校へ入るのに、二年もつづいて試験の当日にわかに高熱を出して、自動車で帰って来たりして、つい入学がおくれ、その結果中学時代に持っていた敬虔《けいけん》な学生気分にも、いつか懈怠《げたい》が来ないわけに行かなかった。ここにも若ものの運命を狂わせる試験地獄の祟《たた》りがあったわけだが、それが庸三の不断の悩みでもあった。
けれど今になってみると、彼はむしろ自身の足跡を、ある程度彼にも知らせておいていいような気分もした。それがもし恋愛といったような特殊の場合であるとしても、老年の彼以上にも適当な批判を下しうるだけの、近代人相応の感覚や情操に事欠くこともあるまい――と、そう明瞭《めいりょう》には考えなかったにしても、少なくもそういった甘やかしい感情はもっていた。ルウズといえば庸三ほどルウズな頭脳の持主も珍らしかった。
ここは水に臨んでいるというだけでも、部屋へ入った瞬間、だれでもちょっと埃《ほこり》っぽい巷《ちまた》から遠ざかった気分になるのであったが、庸三たちには格別身分不相応というほどの構えでもなく、文学にもいくらか色気のある小夜子を相手に無駄口をききながら、手軽に食事などしていると、葉子事件に絡《から》む苦難が、いくらか紛らせるのであった。
「いつかも伺ったけれど、小説てそんなにむずかしいもんですの。」
小夜子はこのごろも書いたとみえて、原稿|挟《ばさ》みを持ち出して来て、書き散らしの小説を引っくらかえしていたが、庸三はこの女は書く方ではなくて、書かれる方だと思っていたので、
「やっぱり五年十年と年期を入れないことには。
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