い手術室の次ぎの室に入って行った。ゴシップや世間の噂《うわさ》で、すでにそれらの医師だちにも興味的に知られているらしい葉子は、入院最初の一日の間に、執刀者のK――博士にも甘えられるだけの親しみを感じていたが、庸三と一言二言話しているうちに用意ができて、間もなく手術台のうえに載せられた。庸三は血を見るのもいやだったし、寄って行くのに気が差して、わざと次ぎの部屋に立っていたが、すっかり支度《したく》のできた博士が、駄々ッ児の子供をでも見るような、頬笑《ほほえ》みをたたえて手術台に寄って行くと、メスの冷たい閃光《せんこう》でも感じたらしい葉子は、にわかに居直ったような悪戯《いたずら》な調子で叫ぶのであった。
「K――さん痛くしちゃいやよ。」
博士は蓬々《ぼうぼう》と乱れた髪をしていたが、「よし、よし」とか何とか言って、いきなりメスをもって行った。
「ちょっと来て御覧なさい。」
やがて博士は庸三を振り返って、率直に言った。
見たくなかったけれど、庸三は手術台の裾《すそ》の方へまわって行った。ふと目に着いたものは白蝋《はくろう》のような色をした彼女の肉体のある部分に、真紅《しんく》に咲いたダリアの花のように、茶碗《ちゃわん》大に刳《く》り取られたままに、鮮血のにじむ隙《すき》もない深い痍《きず》であった。綺麗《きれい》といえばこの上ない綺麗な肉体であった。その瞬間葉子は眉《まゆ》を寄せて叫んだ。
「見ちゃいやよ。」
もちろん庸三は一目見ただけで、そこを去ったのであったが、手術の後始末がすんで、葉子が病室へ搬びこまれてからも、長くは傍《そば》にいなかった。やがて不愉快な思いで彼は病院を辞した。そしてそれ以来二三日病院を見舞う気もしなかった。
庸三の足はしばしば例の川ぞいの家への向いた。ある書店でちょうど大量の出版が計画されたころで、彼もその一冊を頒《わ》けられることになっていたので、原稿を稼《かせ》がない時でも、金の融通はついたので懐《ふとこ》ろはそう寂しくはなかった。それにしても収穫《みいり》の悪いのに慣れている彼の金の使いぶりは、神経的に吝々《けちけち》したもので、計算に暗いだけになお吝嗇《しみっ》たれていた。それにしても纏《まと》まった金を自分の懐ろにして、外へ出るということは、彼の生涯を通してかつて無いことであった。その日その日に追われながら、いきなりな仕事ばかりして来たのも、精根の続かない彼の弱い体としては仕方のないことかも知れなかったが、天性の怠けものでもあった。
「今夜のうちに、たとい一枚でも口を開けておおきになったら。」
幾日も幾日も気むずかしい顔をして、書き渋っている庸三の憂鬱《ゆううつ》そうな気分を劬《いたわ》りながら、妻はそう言って気を揉《も》んでいたものだったが、庸三はぎりぎりのところまで追い詰められて来ると、仕方なし諦《あきら》めの気持でペンを執るのであった。書き出せば出したで、どうにか形はついて行くようなものの、いつも息が切れそうな仕事ばかりであった。収入も少なかったので、彼は自分の金をもつというような機会もめったになかった。妻はそれで結構家を楽しくするだけの何か気分的なものをもっていて、計算の頭脳もない代りに、彼女なりの趣味性ですべての設計を作って行った。教養があるのでもなく、本質的な理解もないながらに、彼の仕事や気分が呑《の》みこめるだけの勘はあったので、彼は仕事場の身のまわりまで委《まか》せきりで、手紙一本の置場すら決まっていた。彼女の手にかかると、毎日の漬《つ》けものの色にも水々した生彩があり、肴《さかな》や野菜ものの目利きにも卒《そつ》がなかった。庸三が小さい時分食べて来た田舎《いなか》の食べ物のことなどを話すと、すぐそれが工夫されて、間もなく食膳《しょくぜん》に上るのだった。それで彼は何かというと外で飯を喰《く》うようなこともなかったし、小使の必要もなかったわけだが、長い下宿生活の慣習も染《し》みこんでいたので、そこらの善良な家庭人のような工合《ぐあい》には行かなかった。育って来た環境も環境だったが、彼には何か無節制な怠けものの血が流れているらしく、そうした家庭生活の息苦しさも感じないわけに行かなかった。彼なりの小さい世俗的な家庭の幸福がまた彼の文学的野心にも影響しないわけに行かなかった。とかく庸三は茶の間の人でありがちであった。書斎にいる時も、客に接している時も、大抵の場合彼女もそこにあった。それに彼は多勢《おおぜい》の子供の世話をしてくれる妻の心を痛めるようなことは、絶対にできなかった。今庸三は孤独の寂しさ不便さとともに、自分の金を懐ろにし自分の時間と世界をもつことができた。狭い楽しい囹圄《れいご》から広い寂しい世間への解放され、感傷の重荷を一身に背負うと同時に、自身の生活に立ち還
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