たは壁の方をむいて少しうとうとしたかと思うと、目を開いたりする彼女の傍《そば》にいるのが、次第に憂鬱《ゆううつ》になって来た。
ある晩方も、庸三はピンセットを使ってから、風呂《ふろ》へ入って、侘《わび》しげな電燈の下で食卓の前にすわった。葉子は傍に熱っぽい目をして臥《ふ》せっていた。頬《ほお》もぽっと紅《あか》くなっていた。こうなると彼女は母親から来るらしく見せて、実は田舎《いなか》の秋本に送らせた金で、彼と一緒に温泉へ来ていることも忘れて、平気でいるらしい庸三の顔さえ忌々しくなるのではないかと、彼は反射的に感じるのであったが、またそう僻《ひが》んで考えることもないのだという気もして、女中が目の前に並べる料理を眺めていた。
「何にも食べない。」
彼女は微《かす》かに目で食べないと答えたらしかったが、庸三が心持|不味《まず》そうに食事をしていると、葉子はひりひりした痛みを感ずるらしく、細い呻吟声《うめきごえ》を立て、顔をしかめた。彼は硬《かた》い表情をして別のことを考えていたので、振り向きもしなかった。
「人がこんなに苦しんでいるのに、平気で御飯たべられるなんて、何とそれが老大家なの。」
庸三はぴりッとした。そしてかっとなった。彼は食事もそこそこに食卓を離れて、散らかった本や原稿紙と一緒に着替えをたたんで鞄《かばん》に始末をすると、※[#「※」は「糸」+「褞」のつくり、第3水準1−90−18、202−上−9]袍《どてら》をぬいで支度《したく》をした。
「おれも君の看護に来たんじゃないんだ。いい迷惑だ。独りでやるがいいんだ。」
庸三はぷりぷりして、電話で汽車の時間をきくと、煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけた。番頭がやって来て、
「お帰りでございますか。」
「ちょっと用もできたから。」
番頭は急げば最終のに間に合うがと、少し首を傾《かし》げていたが、庸三はじっとしてもいられなかった。自動車の爆音がしたので、彼はインバネスを着て、あたふたと部屋を出たが、車が走りだしてから、彼は何か後ろ髪を引かれる感じで、この場の気まずさを十分知りながらも、汽車に間に合わないことを半ば心に念じた。熱海《あたみ》へでもドライブしようかとも考え、家《うち》へ帰って書斎に寝た方が楽しいようにも感じた。
石塊《いしころ》の多い道を、車はガタガタと揺れながらスピイドを出した。庸三は時々|転《ころ》がりそうになったが、風も吹いていたので、揺れる拍子に窓枠《まどわく》に頭をぶちつけそうになって、その瞬間半分ガラスを卸してあった窓から帽子が飛んでしまった。ちょうどわざと飛ばしたように。
「君ちょっと帽子が飛んじゃったんだ。」
運転士は車を止めて風の強い叢《くさむら》のなかに帽子を捜したが、しかしそれも物の二分とはかからなかった。
駅の灯《ひ》が間近に見えて来た。そして今ちょっとのところで駅前の広場へ乗り入れようとした時、汽車の動く音がした。
庸三は何か悪戯《いたずら》でもしたようなふうで部屋へ戻って来た。
「先生オレンジをそう言って!」
やがて葉子も寝床から起きあがった。
入院するまでに葉子の支度はかなり手間取った。ちょうど婦人雑誌に小説を連載していたところなので、それも二月分ためる必要があったし、瑠美子《るみこ》には何か花やかな未来を約束しておきたかったので、差し当たりいつも新しい道を切り開いて、世間の気受けもいい舞踊家の雪枝《ゆきえ》に、内弟子として住みこませたい念願だったので、支度が出来次第、それも頼みに行かなければならなかった。何よりも母に来てもらわなければならなかった。
葉子は湯河原の帰りにも、汽車のクションで臥《ね》ていたくらいで、小田原《おだわら》でおりた時は、顔が真蒼《まっさお》になって、心臓が止まったかと思うほど、口も利けず目も見えなくなって、庸三の手に扶《たす》けられて、駅脇《えきわき》の休み茶屋に連れこまれた時には、まるで死んだように、ぐったりしていたものだが、やっと男衆の手で、奥の静かな部屋へ担《かつ》ぎこまれて、そこでややしばらく寝《やす》んでいるうちに、額に入染《にじ》む冷たい脂汗《あぶらあせ》もひいて、迅《はや》い脈もいくらか鎮《しず》まって来た。彼女はどうかして痛い手術を逃げようとして、かえって手術の必要を痛切に感ずるようになった。
ある日、葉子は、濃《こ》い鼠《ねずみ》に矢筈《やはず》の繋《つな》がった小袖《こそで》に、地の緑に赤や代赭《たいしゃ》の唐草《からくさ》をおいた帯をしめて、庸三の手紙を懐《ふとこ》ろにして、瑠美子をつれて雪枝を訪問した。雪枝は内弟子に住みこませることを快く引き受けてくれたが、詩も作り手蹟《しゅせき》も流麗で、文学にも熱意をもっているので、葉子も古い昵《なじ》みのように話しがは
前へ
次へ
全109ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング