なお》るとみえた創《きず》は癒らないで、今まで忘れていた痛みさえ加わって来た。何といっても内科と婦人科のドクトルのメスには、手ぬるいところがあった。思い切った手術のやり直しが必要であった。庸三は彼女を紹介する外科のある大家のこともひそかに考えていたが、田舎《いなか》での不用意な荒療治が、すっかり葉子を懲りさせていた。
「それよりも私温泉へ行こうと思うの。湯河原《ゆがわら》どう?」
葉子はある日言い出した。
「そうだね。」
「お金はあるの。先生に迷惑かけませんわ、二人分四百円もあったら、二週間くらい居られない?」
庸三もいくらか用意して、東京駅から汽車に乗ったのは、翌日の午後であった。葉子は最近用いることになったゴム輪の当てものなどもスウト・ケイスのなかへ入れて、二人でデパアトで捜し出した変り織りの袷《あわせ》に、黒い羽織を着ていたが、庸三もあまり着たことのない、亡《な》き妻の心やりで無断で作っておいてくれた晴着を身に着けて、目の多い二等車のなかに納まっていた。
十
湯河原ではN――旅館の月並みな部屋に落ち着いたが、かつて庸三が丘に黄金色《こがねいろ》の蜜柑《みかん》が実るころに、弟子たちを引き連れた友人とともに、一ト月足らずも滞在していたころの面影《おもかげ》はなくなって、位置も奥の方を切り開いて、すっかり一流旅館の体裁を備えていた。よく方々案内してくれた後取り子息《むすこ》が、とっくに死んでいたり、友達が騒いでいた娘もよそへ片づいて幾人かの母親になっていた。酒も呑《の》めず弟子もいない庸三は、しばらくいるうちにすっかり孤独に陥って、酔って悪く絡《から》まってくる友達を防禦《ぼうぎょ》するのに骨が折れ、神経がささくれ立ったように疲れて来たものだったが、今考えるとそれも過去の惨《みじ》めな彼の姿であった。後になってみれば、今|演《や》っていることは、それよりももっと醜いものかも知れなかった。
葉子は着いた当座ここへ連れて来たことを感謝するように、そわそわした様子で、一ト風呂《ふろ》あびて来ると、例のガアゼの詰め替えをした後で、橋を渡ってこの温泉町を散歩した。町の中心へ来て、彼は小懐かしそうに四辺《あたり》を見廻した。そして小体《こてい》なある旅館の前に立ち止まると、
「ここに玉突き場があったものだ。主人は素敵な腕を持っていて、僕はその男にキュウをもつことから教わったんだが、幾日来ても物にならずじまいさ、君はつけるかい。」
「北海道では撞《つ》いたもんでしたけれど。あの時分は奥さん方のいろいろな社交もあって、ダンスなんかもやったものなのよ。S――さんの弟さんの農学士の人の奥さんに教わって。」
葉子はいつの場合でも、ロマンチックな話の種に事欠かなかった。グロなその夫人と、土地の商船学校にいた弟との恋愛模様とか、その弟に年上の一人の恋人があって、その弟とのあいだに出来た子供を抱えながら、生花やお茶で自活していることだの、または葉子が乳の腫物《はれもの》を切開するために入院したとき、刀を執った医学士が好きになって、後でふらふらとその男を病院に訪ねて拒絶されたことなど。そうかと思うと、原稿紙をもって不意に姿を晦《くら》まして人を騒がせ、新聞のゴシップ種子《だね》になるようなことも珍らしくなかった。
町に薄暗い電気がつく時分に、宿へ帰って楽しい食卓に就《つ》いた。思い做《な》しか庸三はここの玄関の出入りにも、何か重苦しいものをこくめい[#「こくめい」に傍点]な番頭たちの目に感じるのだったが、葉子は水菓子を女中に吩咐《いいつ》けるにも、使いつけの女中のような親しさで、ただ新聞記者でも来ていはしないかと、隣室の気勢《けはい》に気を配るだけであった。
しかし刺戟《しげき》のつよい湯は彼女にとって逆効果を現わした。三日ばかり湯に浸ってはガアゼの詰めかえをやっているうちに、痛みがだんだん募って来るばかりで、どうかすると昼間でも床を延べさせて横になるのであった。昨日まで時々やって来る少しばかりの苦痛を我慢して、大倉公園へ遊びに入って、色づいた木々のあいだを縫って段々を上ったり、岩組みの白い流れのほとりへ降りてみたり、萩《はぎ》や鶏頭の乱れ咲いている花畑の小径《こみち》を歩いたり、または町の奥にある不動滝まで歩いて、そこからまた水のしたたる岩壁の裾《すそ》をめぐって、晴れた秋の空に焚火《たきび》の煙の靡《なび》く、浅い山の姿を懐かしんだりしていた彼女は、飛んでもないところへ連れて来られでもしたように、眉《まゆ》のあいだに皺《しわ》を寄せて、すっかり機嫌《きげん》がわるくなってしまった。そしてそうなると、庸三も何か悪いことでもしたようで、ひそかに弱い心臓を痛めるのであった。潤《うる》んだ目をして、じっと黙りこくっているとか、ま
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