町の要部の静かな住宅地域に開業していたが、どんなにこの妹を愛しているにしても、とかく、世間の噂《うわさ》に上りがちな彼女の行動を悦《よろこ》ぶはずもなかった。商売の資本くらい与えて、田舎にじっとしていてもらうか、どこか堅いところへ再縁でもして、落ち着いて欲しかったが、田舎に燻《くす》ぶっていられる葉子でないことも解《わか》っていた。葉子がこの兄や母に心配をかけたこともたびたびで、今度出て来る時も、何かの費用を自身に支払ったくらいであった。病床にいる彼女が、よく懐《ふとこ》ろの財布から金を出していたことも、時には庸三の目に触れたのであった。滞在の長びいた庸三は、どうにかしなければならないくらいのことも感づかないわけではなかったが、一度少しばかりの料亭《りょうてい》の勘定を支払った時でさえ、兄を術ながらせたほどだったので、どうしていいか解らなかった。
葉子たちの落ち着いたのは、狭い平屋であったが、南に坪庭もあって、明るい感じの造作であった。花物を置くによろしい肱掛窓《ひじかけまど》もあって、白いカーテンにいつも風が戦《そよ》いでいた。それに葉子は部屋を楽しくする術《すべ》を知っていて、文学少女らしい好みで、籐椅子《とういす》を縁側においてみたり、清楚《せいそ》なシェドウのスタンドを机にすえたりして、色チョオク画のように、そこいらを変化させるのに器用であった。
しかし彼女は顔色もまだ蒼白く、長く坐っているのにも堪えられなかった。創口《きずぐち》がまだ完全に癒《い》えていないので、薬やピンセットやガアゼが必要であった。
「先生、すみませんが、鏡じゃとてもやりにくいのよ、ガアゼ取り替えて下さらない。」
「ああいいとも。」
庸三はそう言って、縁側の明るいところで、座蒲団《ざぶとん》を当てがって、仰向きになっている彼女の創口を覗《のぞ》いて見た。薄紫色に大体は癒着《ゆちゃく》しているように見えながら、探りを入れたら、深く入りそうに思える穴もあって、そこから淋巴液《りんぱえき》のようなものが入染《にじ》んでいた。庸三は言わるるままに、アルコオルで消毒したピンセットでそっと拭《ふ》いて、ガアゼを当てるとともに、落ちないように、細長く切ったピックで止めた。
ピンセットの先きが微《かす》かにでも触ると、「おお痛い!」と叫ぶのだった。
「どうもありがとう。」
葉子は起きかえるのだったが、来る日も来る日も同じことが繰り返されるだけで、はかばかしく行かなかった。
庸三は時とすると、奥の部屋で子供たちとも一緒に、窮屈な一つ蚊帳《かや》のなかに枕《まくら》を並べるのだったが、世帯《しょたい》が彼女の世帯で、その上子供や女中もいるので、気持に落着きもなかったし、葉子も時には闖入者《ちんにゅうしゃ》に対するような目を向けるので、和《なご》やかというわけには行かなかった。彼は少し腹立ち気味で、ふいと出て来るのであったが、古い自分の書斎も心持を落ち着かせてはくれなかった。ある時などは引き返して行って、蚊帳のなかにいる彼女の白い頬《ほお》を引っぱたいて来ることすらあった。葉子はぽっかり彼を見詰めたきり呆《あき》れた顔をしていた。
それに葉子はいつも家にいるわけではなく、庸三が行ってみると、女中が一人留守居をしていることもあれば、戸が閉まっていることもあった。
庸三が自動車で買いものをして歩く彼女を、膝《ひざ》のうえに載せて、よく銀座や神田あたりへ出たのも、そのころであった。柱時計を買うとか、指環《ゆびわ》を作りかえるとか、または化粧品を買うとか。それに外で食事をする習慣もついて来て、一流の料亭《りょうてい》へタキシイをつけることもしばしばあった。というのも、二人の女中まかせの庸三の台所は、ひどく不取締りで、過剰な野菜がうんと立ち流しの下に腐っていたり、結構つかえる器物がそこらへ棄《す》てられたり、下品な皿|小鉢《こばち》が、むやみに買いこまれたりして、遠海ものの煮肴《にざかな》はいつも砂糖|漬《づ》けのように悪甘く、漬けものも溝《どぶ》のように臭かった。それに紛失物もたびたびのことで、渡す小使の用途も不明がちであったが、女中の極度に払底なそのころとしては、目を瞑《つぶ》っているよりほかに手はなかった。
しかし料亭の払いは、いつも庸三がするとは決まっていなかった。むしろ大抵の場合、葉子が帯の間から蟇口《がまぐち》を出して、
「私に払わせて。」
と気前をよくしていた。彼女は無限の宝庫をでも持っているもののように見えた。
やがて涼風が吹いて来た。葉子は二度目に移って行った隣りの下宿屋の二階家から、今度はぐっと近よって、庸三のすぐ向う前の二階家に移っていた。そのころになると、彼女も庸三の口添えで、ある婦人文学雑誌に連載ものを書きはじめていたが、一時|癒《
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