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葉子とよく一緒に歩いた、深い松林のなだらかなスロオプが目に浮かんで来た。そこは町の人の春秋のピクニックにふさわしい、静かで明るい松山であった。暑さを遮《さえ》ぎる大きな松の樹《き》が疎《まば》らに聳《そび》え立っていた。幼い時の楽しい思い出話に倦《う》まない葉子にとって、そこがどんなにか懐かしい場所であった。上の方の崖《がけ》ぎわの雑木に茱萸《ぐみ》が成っていて、萩《はぎ》や薄《すすき》が生《お》い茂っていた。潮の音も遠くはなかった。松の枝葉を洩《も》れる蒼穹《そうきゅう》も、都に見られない清さを湛《たた》えていた。庸三も田舎《いなか》育ちだけに、大きい景勝よりも、こうしたひそやかな自然に親しみを感じた。二人は草履穿《ぞうりば》きで、野生児のようにそこらを駈《か》けまわった。
葉子の家の裏の川の向うへ渡ると、そこにも雪国の田園らしい、何か荒い気分のする場所があって、木立は深く、道は草に埋もれて、その間に農家とも町家ともつかないような家建ちが見られた。葉子はそうした家の貧しい一軒の土間へ入って行って、「御免なさい」と、奥を覗《のぞ》きこんだ。そこには蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》の炎の靡《なび》く方嚮《ほうこう》によって人の運命を占うという老婆が、じめじめした薄暗い部屋に坐りこんでいて、さっそく葉子の身の上を占いにかかった。彼女はほう気立《けだ》った髪をかぶって、神前に祈りをあげると、神に憑《つ》かれているような目をして灯の揺らぎ方を見詰めていた。
「東の方の人をたよりなさい。その人が力を貸してくれる。」
訛《なまり》の言葉でそんな意味の暗示を与えた。ここから東といえば、それが当然素封家の詩人秋本でなければならなかった。
今、葉子が威勢よく上京して来るというのも、陰にそうしたペトロンを控えているためだとは、彼も気づかないではなかったが、その時の気持はやっぱり暗かった。
庸三は葉子の従兄筋《いとこすじ》に当たる、町の青年文学者島野黄昏に送られながら、一緒に帰りの汽車に乗ったのであったが、何か行く手の知れない暗路へ迷いこんだような感じだった。
その悩みもやや癒《いや》された今、彼はなお迎えに出ようか抛《ほう》っておこうかと惑っていた。しかし病床に仰臥《ぎょうが》しながら、捲紙《まきがみ》に奔放な筆を揮《ふる》って手術の予後を報告して来た幾つかの彼女の手紙の意気ごみ方を考えると、寝てもいられないような気にもなるのであった。
着物を着かえて、ステッキを掴《つか》んで門を出ると、横町の角を曲がった。すると物の十間も歩かないうちに、にこにこ笑いながらこっちへやって来る彼女の姿に出逢《であ》った。古風な小紋の絽縮緬《ろちりめん》の単衣《ひとえ》を来た、彼女のちんまりした形が、目に懐かしく沁《し》みこんだ。
葉子は果して慈父に取り縋《すが》るような、しおしおした目をして、しばらく庸三を見詰めていた。
「先生、若いわ。」
まだ十分恢復もしていないとみえて、蚕《かいこ》のような蒼白《あおじろ》い顔にぼうッと病的な血色が差して、目も潤《うる》んでいた。庸三は素気《そっけ》ないふうもしかねていたが、葉子は四辻《よつつじ》の広場の方を振り返って、
「私、女の子供たちだけ二人連れて来ましたの。それに女中も一人お母さんが附けてくれましたわ。さっそく家を探さなきゃなりませんわ。」
そう言って自動車の方へ引き返して行くと、その時車から出て来た幼い人たちと、トランクを提《さ》げた女中とが、そこに立ち停《ど》まっている葉子の傍《そば》へ寄って来た。
「さあ、おじさんにお辞儀なさい。」
子供たちはぴょこんとお辞儀して、にこにこしていたが、この子供たちを纏《まと》めて来て、新らしい生活を初めようとする母親の苦労も容易ではなかった。それも物事をさほど億劫《おっくう》に考えない、夢の多い葉子の描き出した一つの芸術的生活構図にすぎなかった。
庸三が三十年も住み古しの狭い横町と並行した次ぎの横町に、すぐ家が見つかって、庸三の裏の家に片着けてあった彼女の荷物――二人で一緒に池の畔《はた》で買って来たあの箪笥《たんす》と鏡台、それに扉《とびら》のガラスに桃色の裂《きれ》を縮らした本箱や行李《こうり》、萌黄《もえぎ》の唐草《からくさ》模様の大風呂敷《おおぶろしき》に包まれた蒲団《ふとん》といったようなものを、庸三の頼みつけの車屋を傭《やと》って運びこむと、葉子も子供たちを引き連れて、隣の下宿を引き揚げて行った。
大家族主義の田舎の家に育った葉子のことなので、そこに初めて子供たちと一つの新らしい自分の世界をもつことは、何といっても楽しいことに違いなかった。田舎の家もすでに母の心のままというわけにも行かない。相続者の兄家族は辺鄙《へんぴ》にあるその家を離れて、
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