褞」のつくり、第3水準1−90−18、195−上−16]袍《どてら》姿で楊子《ようじ》を啣《くわ》えながら入って来る男があった。
「ああ、これだな。」
 瞬間、庸三の六感が働いたが、それを見ると、いきなり小夜子はにやにやしながら、その男を連れ出してしまった。
 それからまた三年も四年も経《た》って、彼は小夜子の二階の彼女の部屋で、その男ともしばしば花を引いたし、庸三の家《うち》へも遊びに来るようになったが、そのころには彼もかなりうらぶれた姿になって、見ちがえるほど更《ふ》けていた。そしてその時分になって、庸三はいろいろのことを知ることができた。ホン・クルベーの家から、彼女を引っ張り出したのも、かつては煮え湯を呑まされた彼の復讐《ふくしゅう》だったことも解った。
 今、小夜子は彼との新生活に入るつもりで、場合によっては結婚もして本国へもつれて行くつもりでいるクルベーを振り切って出て来たのであったが、誘い出されてみると、まるで当てがはずれてしまった。現在の彼と一脈の新生活を初めるには、小夜子の生活は少し派手すぎていたし、趣味がバタくさかった。そこで小夜子は思いどおりに、こんな水商売を初めたわけであった。
 まだ態形も調《ととの》わない金座通りへ出てから、小夜子は円タクを拾って、神田駅のガアド下までと決めた。
 しかし一人ずつ二階へ呼びあげて占《み》るので、小夜子が占てもらう間、庸三は下でしばらく待っていた。そのうちに小夜子がおりて来た。占《うらな》わない前と表情に変りはなかった。やがて庸三も占てもらうことにした。
「合性は至極よろしい。しかしこの人は落ち着きませんね。よほど厳《きび》しく監督しないと、とかく問題が起こりやすい。」
 占者は言うのであった。葉子のことであった。
 そこを出ると、二人とも占いの結果については話す興味もなくて、少し通りをぶらついた果てに、二人で庸三の書斎へ帰ってみた。小夜子は紫檀《したん》の卓の前に坐って、雑誌など見ていたが、
「先生に私、何か書いていただきたいんですけれど。」
「書くけれど、僕のじゃ君んとこの部屋にうつらない。そのうち何かもって行って上げるよ。あれじゃ少し酷《ひど》いからね。追々取り換えるんだね。」
 それから彼女の家の建築の話に移って、譲り受けた時の値段や、ある部分は改築のある部分は新築の費用などの話も出た。
 庸三は燻《いぶ》しのかかった古い部屋を今更のように見廻した。
「この家もどうかしなきゃ。」
「そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の鳥八十《とりやそ》お出入りの棟梁《とうりょう》ですの。」
 大ブルジョアのその鳥料理屋が彼女の彼と、何かの縁辺になることも、その後だんだんに解《わか》って来た。
 その時であった、凝ったその鳥料理屋の建築や庭を見いかたがた末の娘もつれて、晩飯を食べに行ったのは。美事な孟棕《もうそう》の植込みを遠景にして、庭中に漫々とたたえた水のなかの岩組みに水晶|簾《すだれ》の滝がかかっていて、ちょうどそれが薄暮であったので、青々した寒竹の茂みから燈籠《とうろう》の灯《ひ》に透けて見えるのも涼しげであった。無数の真鯉《まごい》緋鯉《ひごい》が、ひたひた水の浸して来る手摺《てすり》の下を苦もなげに游泳《ゆうえい》していた。桜豆腐、鳥山葵《とりわさ》、それに茶碗《ちゃわん》のようなものが、食卓のうえに並べられた。黒の縮緬《ちりめん》の羽織を着て来た清楚《せいそ》な小夜子の姿は、何か薄寒そうでもあったが、彼女はほんのちっとばかし箸《はし》をつけただけであった。
 咲子は人も場所も、何か勝手がちがったようで、嬉《うれ》しそうでもなかったが、始終にこにこしていた。
「いつかクルベーさんと、何かのはずみで、急に日光へ行くことになって、上野駅へ来たのはよかったけれど、紙入れを忘れて来てしまったんですのよ。時間はないし、仕方がないから私がこの家へ来て事情を話すと、黙って三百円立て替えてくれたことがありましたっけ。」
 そんな話も出たりして、帰りに三人で夜店の出ている広小路をあるいた。小夜子は子供の手を引いていたが、そうして歩くにも、何か人目を憚《はばか》るらしいふうにも見えるのであった。
 ふと葉子の話が出た。
「僕もつくづくいやになった。止《よ》そうと思う。」
「止しておしまいなさい。」
「あと君が引き請ける?」
 頼りなさそうな声で、
「引き請けます。」

 今、庸三は別にそれを当てにしているわけではなかったけれど、葉子と別れるには、そうした遊び相手のできた今が時機だという気もしていたので、葉子を迎えに行くのを怠《ずる》けようとして、そのまま蚊帳《かや》のなかへ入って、疲れた体を横たえた。彼はじっと眼を瞑《つぶ》ってみた
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