、筒袖《つつそで》の浴衣《ゆかた》一枚で仕事をしていたのだったが、雀《すずめ》の囀《さえず》りが耳につく時分に書きおわったまま、消えやらぬ感激がまだ胸を引き締めていた。
 電報を手にした時、彼は待っていたものが、到頭やって来たという感じもしたが、あわててもいた。
「……一年や二年、先生のお近くで勉強できるほどの用意もできましたので……」
 そう言った彼女の手紙を受け取ったのも、すでに三日四日も前のことであったが、立て続けに二つもの作品を仕上げなければならなかったので、あれほど頻繁《ひんぱん》に手紙を彼女に書いていた庸三も、それに対する返辞も出さずにいた。真実のところ彼はこの事件に疲れ果てていた。享楽よりも苦悩の多い――そしてまたその苦悩が享楽でもあって、つまり享楽は苦悩だということにもなるわけだし、苦悩がなければ倦怠《けんたい》するかもしれないのであったが、それにしても彼はここいらで、どうか青い空に息づきたいという思いに渇《かわ》いていた。
 この事件の幕間《インタアブアル》として、彼は時々水辺の小夜子の家《うち》へも、侘《わび》しさを紛らせに行った。その時分にはいつも中の間とか茶の間とかにいた、姉も田舎《いなか》へ帰ってしまって、彼も座敷ばかりへ通されていなかった。時間になると小夜子は風呂《ふろ》へ入って、それから鏡の前に坐るのであった。顔をこってり塗って、眉《まゆ》に軽く墨を刷《は》き、アイ・シェドウなどはあまり使わなかったが、紅棒《ルウジュ》で唇《くちびる》を柘榴《ざくろ》の花のように染めた。目も眉もぱらっとして、覗《のぞ》き鼻の鼻梁《びりょう》が、附け根から少し不自然に高くなっているのも、そう気になるほどではなく、ややもすると惑星のように輝く目に何か不安定な感じを与えもして、奈良《なら》で産まれたせいでもあるか、のんびりした面差《おもざ》しであった。美貌の矜《ほこ》りというものもまだ失われないで、花々しいことがいくらも前途に待っているように思えた。彼女は何かやってみたくて仕方がなかった。小説を書くということも一つの願望で、庸三は手函《てばこ》に一杯ある書き散らしの原稿を見せられたこともあった。
「私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。」
「男を手玉に取るような工合《ぐあい》には行かない。」
「あら、そんなことしませんよ。」
 化粧がすむと着物を着かえて、まるで女優の楽屋入りみたいな姿で、自身で見しりの客の座敷へ現われるのであった。座敷を一つ二つサアビスして廻ると、きまって酔っていた。呷《あお》ったウイスキイの酔いで、目がとろんこになり、足も少しふらつき気味で、呂律《ろれつ》も乱れがちに、でれんとした姿で庸三の傍《そば》に寄って来ることもあった。
「相当なもんだな。」
 庸三は無関心ではいられない気持で、
「随分|呑《の》むんだね。そう呑んでいいの。」
「大丈夫よ、あれっぽっちのウイスキイ。私酔うと大変よ。」
「お神さん!」
 廊下で呼ぶ声がする。
「今あの人たちみんな帰りますから。」
 しかし、そんな晩、彼女がどこで寝たかも彼には解《わか》りようもなかったし、何か商売の邪魔でもしているような気もして、彼はタキシイを言ってもらうのだったが、時には電気|行燈《あんどん》を枕元《まくらもと》において、ギイギイという夜更《よふ》けの水の上の櫓《ろ》の音を耳にしながら話しこむことも珍らしくなかった。
 ある日も庸三は小夜子と一緒に、彼女の門を出た。
「先生、今日お閑《ひま》でしたら、神田まで附き合ってくれません? 私あすこで占《み》てもらいたいことがありますの。」
「いいとも、事によったら僕も。――君は何を占てもらうんだい。」
「差し当たり何てこともないんですけれど、私、妙ね。随分長いあいだの関係で、昔は一緒に世帯《しょたい》をもったこともありましたの。今は別に何てこともないんです。だけど、相手が逃げるとこっちが追っ駈《か》け、こっちが逃げると、先方が追っ駈けて来るといったあんばいで、切れたかと思うと時たってまた繋《つな》がったりして……変なものですね。」
 小夜子はいつになくしんみりしていた。
「どんな人?」
「それが近頃ずっとよくないんですの。」
 庸三は小夜子の好くような男はどんな男かと、それを探りたかったが、彼女はただそう言っただけで、その相手の概念だも与えなかった。しかしそれから大分たってから庸三がある晩茶の間の大振りな紫檀《したん》の火鉢《ひばち》の側にいると、その日はひどく客が立てこんで、勝手元も忙しく、間断なく料理屋へ電話をかけたりして、小夜子も不断着のまま、酒の燗《かん》をしたり物を運んだりしていたが、ふと玄関の方の襖《ふすま》を開けて※[#「※」は「糸」+「
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