ら、二人でやって上げてもいいですね。」
「局所麻酔か何かですの?」
「さあね。五分か十分|貴女《あなた》が我慢できれば、それにも及ばないでしょう。じりじり疼痛《とうつう》を我慢していることから思えば、何でもありませんよ。」
 そんな問答がしばらく続いて、結局一と思いに切ってもらうことに決定した。
「痔は切るに限るよ。僕は切ってよかったと今でも思うよ。切って駄目なものなら、切らなきゃなお駄目なんだ。じりじり追い詰められるばかりだからね。」
 何事なく言っているうちに、庸三は十二三年前に、胃腸もひどく悪くて、手術後の窶《やつ》れはてた体を三週間もベッドに仰臥《ぎょうが》していた時のことを、ふと思い出した。十三の長男と十一の長女とが、時々見舞いに来てくれたものだが、衰弱が劇《はげ》しいので、半ば絶望している人もあった。神に祈ったりしていたその長女は、それから一年もたたないうちに死んでしまった。心配そうな含羞《はにか》んだようなその娘の幼い面影が、今でもそのまま魂のどこかに烙《や》きついていた。もしも彼女が生きていたとしたら、母の死の直後に起こった父親のこんな事件を、何と批判したであろうか。生きた子供よりも死んだ子供の魂に触れる感じの方が痛かった。それに比べれば、二十五年の結婚生活において、妻の愛は割合|酬《むく》いられていると言ってよかった。
 翌日になって、三時ごろに二人打ち連れて医師がやって来た。彼らはさも気易《きやす》そうな態度で、折鞄《おりかばん》に詰めて来た消毒器やメスやピンセットを縁側に敷いた防水布の上にちかちか並べた。夏もすでに末枯《うらが》れかけたころで、ここは取分け陽《ひ》の光にいつも翳《かげ》があった。その光のなかで荒療治が行なわれた。
 庸三はドクトルの指図《さしず》で、葉子の脇腹《わきばら》を膝《ひざ》でしかと押えつける一方、両手に力をこめて、腿《もも》を締めつけるようにしていたが、メスが腫物を刳《えぐ》りはじめると、葉子は鋭い悲鳴をあげて飛びあがろうとした。
「痛た、痛た、痛た。」
 瞬間|脂汗《あぶらあせ》が額や鼻ににじみ出た。メスをもった婦人科のドクトルは驚いて、ちょっと手をひいた。――今度は内科の院長が、薔薇色《ばらいろ》の肉のなかへメスを入れた。葉子は息も絶えそうに呻吟《うめ》いていたが、面《おもて》を背向《そむ》けていた庸三が身をひいた時には、すでに創口《きずぐち》が消毒されていた。やがて沃度《ヨード》ホルムの臭《にお》いがして、ガアゼが当てられた。
 医師が器械を片着けて帰るころには、葉子の顔にも薄笑いの影さえ差していた。そしてその時から熱がにわかに下がった。
 庸三は母や兄の親切なサアビスで、一日はタキシイを駆って、町から程合いの山手の景勝を探って、とある蓮池《はすいけ》の畔《ほと》りにある料亭《りょうてい》で、川魚料理を食べたり、そこからまた程遠くもない山地へ分け入って、微雨のなかを湖に舟を浮かべたり、中世紀の古色を帯びた洋画のように、幽邃《ゆうすい》の趣きをたたえた山裾《やますそ》の水の畔《ほとり》を歩いたりして、日の暮れ方に帰って来たことなどもあって、また二日三日と日がたった。
 そんな時、庸三は今まで誰か葉子の傍《そば》にいたものがあったような影も心に差すのであったが、葉子はそれとは反対に、蚊帳《かや》の外に立膝している庸三に感激的な言葉をささやくのであった。
「これが普通の恋愛だったら、誰も何とも言やしないんだわ。年のちがった二人が逢《あ》ったという偶然が奇蹟《きせき》でなくて何でしょう。」
 しかし庸三はまたその言葉が隠している、真の意味も考えないわけに行かなかった。三年か五年か、せいぜい十年も我慢すれば、やがて庸三もこの舞台から退場するであろう。そして一切が清算されるであろう。それまでに巧くジャーナリズムの潮を乗り切った彼女を、別の楽しい結婚生活が待っているであろうと。

 庸三は今彼の書斎で、せっせと紙の上にペンを走らせていた。
 書いているうちに、何か感傷が込みあげて、字体も見えないくらいに、熱い涙がにじんで来た。彼は指頭《ゆびさき》や手の甲で涙を拭《ふ》きながら、ペンを運んでいた。彼は次ぎの部屋で、すやすや明け方の快い睡《ねむ》りを眠っている幼い子供たちのことで、胸が一杯であった。宵《よい》に受け取った葉子の電報が、机の端にあった。
  アシタ七ジツク
 というのであった。
 病床にいる彼女と握手して帰ってから、もう二週間もの日が過ぎたが、その間に苦しみぬいた彼の心も、だんだん正常に復《かえ》ろうとしていた。ここですっかり自身を立て直そうと思うようになっていた。その方へ心が傾くと、にわかに荷が軽くなったような感じで、道が目の前に開けて来るのであった。
 板戸も開け放したまま
前へ 次へ
全109ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング