かに茶の間へ出て行って見た。葉子は姐御《あねご》のようなふうをして、炉側《ろばた》に片膝《かたひざ》を立てて坐っていたが、
「お前なんぞ松川さんが愛していると思ったら、飛んだ間違いだぞ。おれ今だって取ろうと思えばいつでも取ってみせる。」
 という言葉が彼の耳についた。
 するうち嵐《あらし》が凪《な》いで、書生はその辺を飛びまわっている男の子の機嫌《きげん》を取るし、色の浅黒い、目の少しぎょろりとした継母は匆々《そうそう》にお辞儀をして出て行って、葉子は子供のふざけているのに顔を崩しながら、書生たちにもお愛相よくふるまっていた。やがて書生たちも、烏賊《いか》の刺身や丸ごと盆に盛った蟹《かに》などを肴《さかな》にビールを二三杯も呑《の》んで、引き揚げていった。
 その晩、庸三が煩《うるさ》く虫の集まって来る電燈の下で、東京の新聞に送る短かいものを書いていると、その時から葉子は発熱して、茶の間の仏壇のある方から出入りのできる、店の横にある往来向きの部屋で床に就《つ》いてしまった。触ると額も手も火のように熱かった。顔も赤くほてって、目も充血していた。
「苦しい?」
「とても。熱が二度もあるのよ。それにお尻《しり》のところがひりひり刃物で突つくように痛んで、息が切れそうよ。」
「やっぱり痔瘻《じろう》だ。」
 庸三にも痔瘻を手術した経験があるので、その痛みには十分同情できた。彼女はひいひい火焔《かえん》のような息をはずませていたが、痛みが堪えがたくなると、いきなり跳《は》ねあがるように起き直った。それでいけなくなると、蚊帳《かや》から出て、縁側に立ったり跪坐《しゃが》んだりした。
 もちろんそれはその晩が初めての苦しみでもなかった。もう幾日も前から、肛門《こうもん》の痛みは気にしていたし、熱も少しは出ていたのであったが、見たところにわかに痔瘻とも判断できぬほど、やや地腫《じば》れのした、ぷつりとした小さな腫物《はれもの》であった。
「痔かも知れないね。」
 彼は言っていた。その後も時々気にはしていたが、少しくらいの発熱があっても、二人の精神的な悩みの方が、深く内面的に喰《く》いこんでいたので、愛情も何かどろどろ滓《かす》のようなものが停滞していて、葉子の心にも受けきれないほど、彼の苛《さいな》み方も深刻であった。どうかすると彼女は妹に呼ばれて離れを出て、土間をわたって母屋《おもや》の方へ出て行くこともあって、しばらく帰って来ないのであったが、帰って来たときの素振りには別に変わったところもなかった。
「私を信用できないなんて、先生もよくよく不幸な人ね。」
 葉子は言うのだったが、それかと言って、場所が場所だけに、争闘はいつも内攻的で、高い声を出して口論するということもなかった。
 やがてその痔が急激に腫れあがって、膿《うみ》をもって来たのであった。
 庸三は傍《そば》に寝そべっているのにも気がさして、蚊帳を出ようとすると、彼女は夢現《ゆめうつつ》のように熱に浮かされながら、
「もうちょっと居て……。」
 と引き止めるのであった。
 朝になると、彼女も少し落ち着いていて、狭い露路庭から通って来る涼風に、手や足やを嬲《なぶ》らせながら、うつらうつらと眠っているのだったが、それもちょっとの間の疲れ休めで、彼女がある懇意な婦人科のK氏に診《み》てもらいに行ったのは、まだ俥《くるま》でそろそろ行ける時分で、痛みも今ほど跳《と》びあがるほどではなかったし、熱も大したことはなかった。それがてっきり痔瘻だとわかったのは、その診察の結果であったが、今のうち冷し薬で腫れを散らそうというのが、差し当たっての手当であったが、腫物はかえって爛《ただ》れひろがる一方であった。そこで、今日になって葉子は別に、これも日頃懇意にしている文学好きの内科の学士で、いつか庸三をつれて病院の棟《むね》続きのその邸宅へ遊びに行ったこともある院長にも来てもらうことにした。
 その先生が病院の回診をすましてから、俥でやって来た。その時葉子の寝床は、不断母親の居間になっている、茶の間の奥の方にある中庭に臨んだ明るい六畳に移され、庸三も傍に附き添っていた。彼は診察の結果を聞いてから、ここを引き揚げたものかと独りで思い患《わずら》っていたが、痛がる下の腫物を指で押したり何かしていた院長は、
「もう膿《う》んでいる。これは痛いでしょう。」
 と微笑しながら、
「あんた手術うけたことありましたかね。」
「北海道でお乳を切ったんですのよ。また手術ですの、先生。」
「これは肛門《こうもん》周囲炎というやつですよ。こうなっては切るよりほかないでしょうね。」
「外科の病院へ行って切ったもんでしょうかね。」
「それに越したことはないが、なに、まだそう大きくもなさそうだから、Kさんにも診てもらったというな
前へ 次へ
全109ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング