ずんだ。庸三が葉子につれられて、お浚《さら》いを見に行ったのも、それから間もないある日の晩方であった。
「私も小説が書きたくて為様《しよう》がなかったんですけどもね。」
 何かごちゃごちゃ装飾の多い彼女の小ぢんまりした部屋で、気のきいた晩餐《ばんさん》の御馳走《ごちそう》になりながら、庸三は彼女の芸術的|雰囲気《ふんいき》と、北の人らしい情熱のこもった言葉を聴《き》いていたが、芸で立つ人の心掛けや精力も並々のものではなかった。話がかつての彼女の恋愛に及んで来ると、清《すず》しい目ににわかに情熱が溢《あふ》れて来た。
 しかし彼女は独りではなかった。庸三が前からその名を耳にしていた若い文学者の清川がそこにいて、下町の若旦那《わかだんな》らしい柄の彼を、初め雪枝が紹介した時に、庸三はそれが彼女の若い愛人だと気づきながら、刹那《せつな》に双方の組合せがちょっと気になって、何か仄《ほの》かな不安を感ずるのであった。
「これこそ葉子に似合いだ。」
 庸三はそう思った。
 葉子が病室で着るつもりで作った、黝《くろ》ずんだ赤と紺との荒い棒縞《ぼうじま》の※[#「※」は「糸」+「褞」のつくり、第3水準1−90−18、203−下−9]袍《どてら》も、不断着ているので少し汚《よご》れが見えて来たが、十一月もすでに半ば以上を過ぎても、彼女はまだ二階の奥の間に寝たり起きたりしていた。そのころになると、ガアゼの詰めかえも及ばなくなって、どうかすると彼女は痛さを紛らせるために、断髪の頭を振り立て、じだんだ踏んで部屋中|跳《と》びあるいた。彼女は間に合わせの塗り薬を用いて、いくらか痛みを緩和していた。庸三はしばしば彼女の傍《そば》に寝たが、ある夜彼は彼女の口から、秋本が見舞いがてら上京するということを聴《き》いた。
「あの人時々東京へ来るのよ。」
 葉子は気軽そうに言った。
「来てもほんの二三日よ。だけど、私お金もらってるから、一度だけ行かしてね。」
 それが病気見舞かと思われ、葉子の動静を探るためかと思われたが、葉子の様子に変りはなかった。
 その二階から見える庸三の庭では、焚火《たきび》の煙が毎日あがっていた。もう冬も少し深くなって、増築の部分の棟《むね》あげもすんでいた。彼はぜひとも家をどうにかしなければならない羽目になっていた。

      十一

 ある日の午後、葉子は庸三《ようぞう》の同意の下に、秋本の宿を訪問すべく、少し濃いめの銀鼠地《ぎんねずじ》にお納戸色《なんどいろ》の矢筈《やはず》の繋《つな》がっている、そのころ新調のお召を着て出て行った。多少結核性の疑いもあるらしい痔疾《じしつ》のためか、顔が病的な美しさをもっていて、目に潤《うる》んだ底光りがしていた。少なからぬ生活費を遠くにいる秋本に送らせながら、身近かにいる庸三に奉仕しているということが、たといそれが小説修業という彼女の止《や》みがたき大願のためであり、その目的のためには有り余る秋本の財産の少し減るぐらいは、大した問題ではないにしても、時々には秋本を欺いていることに自責の念の禁じ得ないこともあって、それが痔の痛みと一緒に、ひどく彼女の神経を苛立《いらだ》たせた。同時に葉子の体を独占的に縛っているかのように思える庸三が、ひどく鈍感で老獪《ろうかい》な男のように思えて、腹立たしくもなるのであった。傍《はた》からの目には、とかく不純だらけのように見えるであろう彼女の行為も、彼女自身からいえば、現われ方は歪《ゆが》んでいても、それは複雑で矛盾だらけの環境と運命のせいで、真実《まこと》は思いにまかせぬ現実の生活のために、弱い殉情そのものが無残に虐《しいた》げられているのだと思われてならなかった。いわば彼女の殉情と文学的情熱とは、現実の蜘蛛《くも》の巣にかかって悶《もだ》えている、美しい弱い蝶《ちょう》の翅《はね》のようなものであった。
「そんなに金を貰《もら》ってもいいのか。」
 二百三百と、懐《ふとこ》ろがさびしくなると、性急に電報|為替《がわせ》などで金を取り寄せていることが、そのころにはだんだん露骨になって、見ている庸三も気が痛むのであった。
「いいのよ、有るところには有るものなのよ。」
「いや、もう大して無いという話だぜ。」
「ないようでも田舎《いなか》の身上《しんしょう》っていうものは、何か彼《か》か有るものなのよ。」
 葉子は楽観していたが、送ってくれる金の受取とか礼状とかいったようなものも、なかなか書かないらしいので、庸三はそれも言っていた。
「だから私困るのよ。手紙を出すとなると、あの人が満足するように、いくらか艶《つや》っぽいことも書かなきゃならないし、書こうとすれば、先生の目はいつも光っているでしょう。」
 そう言って葉子は苦笑していたが、わざと庸三の前で、達筆に書い
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