だか馬鹿々々しくなって、クルベーさんに感づかれても困ると思って、五円やって逐《お》っ払っちゃいました。けれど、何しろその人は草鞋足袋《わらじたび》か何かで見すぼらしいったらないんですの。顔見るのもいやでしたわ。」
ちょうど時間がよかったので、小夜子の望みで彼は久しぶりで歌舞伎《かぶき》を覗《のぞ》いてみることにした。葉子の好きな言葉のない映画よりも、長いあいだ見つけて来た歌舞伎の鑑賞癖が、まだ彼の躰《からだ》にしみついていた。暗くて陰気くさい映画館には昵《なじ》めなかった。
小夜子は帳場へ出て、電話で座席があるかないかを聞きあわせた。
「二階桟敷でしたら、五つ目がありますの。
「結構。」
「私|支度《したく》しますから、先生もお宅へ着物を取りにおやんなすっては。」
「そうね。」
その通りにして部屋で待っていると、女中がやって来て、
「何を着て行っていいか、お神さんが先生に来て見て下さいって。」
「そう。」
庸三が行ってみると、箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》と扉《とびら》がいくつも開いていて、そこに敷いた青蓙《あおござ》のうえにも外にも、長襦袢《ながじゅばん》や単衣《ひとえ》や帯が、花が散りしいたように取り散らかされていた。
「あまり派手じゃいけないでしょう。」
「そうね。あまり目立たない方がいいよ。」
結局何かの雨絣《あめがすり》に、黒の地紋の羽織ということになった。顔もいつものこってりしない程度で、何かきりりと締りの好い、愛らしい形がそこに出来あがった。彼女は流行さえ気にしなければ、一生着るだけの衣裳《いしょう》に事欠かないほどのものを持っていた。丸帯だけでも長さ一間幅四尺もある金庫に一杯あった。すばらしい支那服、古い型の洋服――そんなものも、その後何かのおりに、引っ張り出してみたが、それらは残らず震災後に造ったもので、無論クルベー好みのけばけばしいものばかりであった。
車が来たので、庸三は勝手口から降りた。小夜子はコムパクトを帯にはさみながら部屋を出て来た。
「ちょっと寄り道してもいいでしょう。手間は取りません。」
そう言って小夜子は永田町《ながたちょう》へと運転士に命じた。
じきに永田町の静かな町へ来た。小夜子は蔦《つた》の絡《から》まった長い塀《へい》のはずれで車をおりて、その横丁へ入って行った。しゃなりしゃなりと彼女の涼しげな姿が、彼の目の先を歩いて行ったが、どんな家《うち》へ入って行ったかは、よく見極《みきわ》められなかった。それがクルベーの邸宅であることは、ずっと後に解《わか》った。
暑い盛りの歌舞伎座は、そう込んでいなかった。俳優の顔触れも寂しかったし、出しものもよくはなかった。庸三は入口で、顔見しりの芝居道の人に出逢《であ》ったが、廊下でも会社の社長の立っているのを見た。小夜子が紹介してくれというので、ちょいと紹介してから、二階へあがって行ったが、そうやって、前側にすわって扇子をつかっている小夜子の風貌《ふうぼう》は、広い場内でも際立《きわだ》つ方であった。でも何の関係もないだけに、葉子と一緒の時に比べて、どんなに気安だか知れなかった。
二人は楽しそうに、追々入って来るホールの観客を見降ろしながら、木の入るのを待っていた。
到頭ある日葉子から電報が来た。月|蒼《あお》く水|煙《けぶ》る、君きませというような文句であった。
庸三はもう二週間もそれを待ちかねていた。絶望的にもなっていた。いきなり彼女の故郷へ踏みこんでいって、町中《まちなか》に宿を取って、ひそかに動静を探ってみようかなぞとも考えたり、近所に住んでいる友人と一緒に、ある年取った坊さんの卜者《うらないしゃ》に占ってもらったりした。彼はずっと後にある若い易の研究者を、しばしば訪れたものだったが、その方により多くの客観性のあるのに興味がもてたところから、自身に易学の研究を思い立とうとしたことさえあったが、老法師のその場合の見方も外れてはいなかった。占いの好きなその友人も、何か新しい仕事に取りかかる時とか、または一般的な運命を知りたい場合に、東西の人相学などにも造詣《ぞうけい》のふかい易者に見てもらうのが長い習慣になっていた。支那出来の三世相《さんぜそう》の珍本も支那の古典なぞと一緒に、その座右にあった。
「梢を叩《たた》き出してもかまわない。おれが責任をもつ。」
そう言って庸三の子供たちを激励する彼ではあったが、反面では彼はまた庸三の温情ある聴《き》き役でもあった。
老法師は庸三たちの方へ、時々じろじろ白い眼を向けながら不信者への当てつけのような言葉を、他の人の身の上を説明している時に、口にするのであったが、順番が来て庸三が傍《そば》へ行くと、不幸者を劬《いた》わるような態度にかえって、叮嚀《ていねい》に水晶の珠《たま》を
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