転《ころ》がし、数珠《じゅず》を繰るのであった。
「この人は、きっと貴方《あなた》の処《ところ》へ帰って来ます。慈父の手に縋《すが》るようにして帰って来ます。貴方がもし行くにしても、今は少し早い。月末ごろまで待っていなさるがいい。そのころには何かの知らせがある。」
 卜者は言うのであった。
 とにかく庸三は再び葉子の家を見舞うことにして返電をうった。そしてその翌日の晩、いくらかの土産《みやげ》をトランクに詰めて、上野を立った。実はどこか福島あたりの温泉まで葉子が出て来て、そこで庸三と落ち合う約束をしたので、彼は今そうやって汽車に乗ってみると、またしても彼女の家族や町の人たちに逢うのが、憂鬱《ゆううつ》であった。しかし翌日の午後駅へついてみると、葉子|姉妹《きょうだい》や弟たちも出迎えていて、初めての時と別に渝《かわ》りはなかった。彼は再び例の離れの一室に落ちついた。瑠美子のほかに、ちょうど継母《ままはは》の手から取り戻した二人の子供もいて、葉子は何かそわそわしていたが「ちょっと先生……」と言って、彼をさそい出すと、土間を渡って二階へ上がって行くので、彼も何の気なしについて上がった。
 葉子は縁側の椅子《いす》を彼にすすめて、子供取り戻しの経緯《いきさつ》を話した。ここからそう遠くはない山手の町の実家へ引き揚げて来ている継母は、自分の子がもう二人もできていて、とかく葉子の子供たちに辛《つら》く当たるのであった。
「北海道時代に私が目をかけて使っていた女中なんですよ。その時分は子供にもよくしてくれて、醜い女ですけれど、忠実な女中だったんですのよ。松川は相当のものを預けて行ったものらしいんですの。上海《シャンハイ》で落ち着き次第、呼び寄せることになっているらしいんですけれど、あの子たちは食べものもろくに食べさせられなかったんですの。」
「君がつれて来たのか。」
「私が乗り込んでいって、談判しましたの。私には頭があがらないんですの。」
「それでこれから……。」
「先生にご迷惑かけませんわ。」
「…………。」
「先生怒らないでね。私あの人に逢ったの。」
 庸三はぎょっとした。それが庸三も一度逢って知っている秋本のことであった。
「誰れに?」
「私には子供を育てて行くお金がいるんですもの。」
 庸三はいきなり恐ろしい剣幕で、葉子の肩を両手で掴《つか》んで劇《はげ》しく揺すり、壁ぎわへ小突きまわすようにした。
「御免なさい、御免なさい。そんなに怒らないでよ。私いけない女?」
 やがて庸三は離れた。そして椅子に腰かけた。
 そうしている処へ、瑠美子が「まま、まま」と声かけながら段梯子《だんばしご》をあがって来た。
「瑠美ちゃん下へ行ってるのよ。」葉子は優しく言って、
「まま今おじちゃんにお話があるの。」
 やがて葉子はそのことはけろりと忘れたように、話を転じた。妹が近々|許婚《いいなずけ》の人のところに嫁《とつ》ぐために、母に送られて台湾へ行くことになったことだの、母の帰るまでゆっくり逗留《とうりゅう》していてかまわないということだの――。
 庸三は灰色の行く手を感じながらも、朗らかに話している葉子の前にいるということだけでも、瞬間心は恰《たの》しかった。すがすがしい海風のような感じであった。

      九

 庸三の今度の訪問は、滞在期間も前の時に比べてはるかに長かったし、双方親しみも加わったわけだが、その反面に双方が倦怠《けんたい》を感じたのも事実で、終《しま》いには何か居辛《いづら》いような気持もしたほど、周囲の雰囲気《ふんいき》に暗い雲が低迷していることも看逃《みのが》せないのであった。帰りの遅くなったのは、最近になってやっとはっきり自覚するようになった葉子の痔瘻《じろう》が急激に悪化して、ひりひり神経を刺して来る疼痛《とうつう》とともに、四十度以上もの熱に襲われたからで、彼はそれを見棄《みす》てて帰ることもできかね、つい憂鬱《ゆううつ》な日を一日々々と徒《いたず》らに送っていた。
 最初着いた時分には、よく浜へも出てみたし、小舟で川の流れを下ったり、汽車で一二時間の美しい海岸へ、多勢《おおぜい》でピクニックに行ったりしたものであった。いろいろの人が持ち込んで来る色紙や絹地に、いやいやながら字を書いて暮らす日もあった。その人たちのなかには、廻船問屋《かいせんどんや》時代の番頭さんとか、葉子の家の田地を耕しているような親爺《おやじ》さんもあった。だだっ広い茶の間を駈《か》けて歩いているのは葉子の別れた良人《おっと》によく肖《に》ている、瑠美子の幼い妹や弟たちで、それに葉子の末の妹なども加わって、童謡の舞踊が初まることもあった。葉子はさも幸福そうに手拍子を取って謳《うた》っていた。子供の手を引いて盛り場の方へ夜店を見にいくこともあれば
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